第29代「欽明天皇」は加羅国の「仇衡王」なのか?

※欽明天皇が実質的な任那の末王であると断定する説がある。

欽明天皇の宮号の「金刺宮」については、その読みは「カナサシノミヤ」ではなく「カシハラ」と読む
金=kasi(カシ)  宮=palli(ハル) 
駕洛国(任那)の王姓である金官-金海 のことである。

26代の継体天皇(507~531)の後、27代安閑天皇は在位2年、宣化天皇が4年で崩御、そして29代が欽明天皇(539年即位)である。
そして、この時代に「仏教伝来」となる,,,,,,,,,,,,,。
ここから、蘇我氏と物部氏の対立が始まるのだが、、、、王位継承と絡んで古代宗教戦争となる、、、この国家を2分するという権力闘争は一見、単純で分りやすい構造と思われるのだが、、、、、、。

大化改新にいたる前の天皇、

欽明天皇を知ることにより日本のルーツ、倭の国が当時どのような国家形態であったのかが覗われるのです。


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一説には、欽明天皇は駕洛国(加羅国)の仇衡王(クヒョン)と同一人物であるという。

欽明天皇の和号は「天国排開広庭 アマクニオシハラキヒロニワ」らしい、、、、

これは、amekini-osi-para-ki-piro-ni-wa で、、、、、加羅国支配層の言語「ドラヴィダ語」では
天国(亀国)が敗れた首露王の城の大王 という意味になる。

この時期、加羅国は(532年)新羅に滅ぼされている。
駕洛国(加羅国)最後の王は仇衡王(521年即位)である。

日本書紀によれば、529年に仇衡王は日本に来ている。

新羅に降伏する以前に、分国である倭国に来ていたと思われる。

そして、倭国は任那加羅国の復興に長期にわたり努力する、、、、、。
※任那加羅国の再建行動は、欽明から推古天皇まで90年間にわたり、詔は15回にわたる。


、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

話は、更に展開する

加羅族の大昔の本拠は、インドカルカッタの北西部の
アユダ国(Ayudhya)   え、、、アユタヤ?,,,、、、違います、それはタイの古都です。
アユダ国です。

-------------加羅(駕洛:伽耶:任那ともいう)建国神話-------

伽耶の村々の村長たちが、あるとき亀旨峰に集まり、神迎えの祭りを行っていると、天空より神の声が聞こえた。そして、紫の縄が天から垂れてきて、縄の先に金の合子(食器)があった。その中に6個の卵が入っていたが、これらの卵から6人の神童が生まれた。最初に生まれた子供を首露王と言った。彼らは各々加耶6国(金官伽耶、大加耶、星山加耶、阿羅加耶、小加耶、古寧加耶)の王になった。ある日、緋の帆を張った船が神女を乗せて来航したので、これを迎えて王妃とした。女は阿踰陀(アユダ)国の王女で、父王の命により、首露国の妃となるため渡来したという。

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という、、、、、、、、、、、、。


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---------wikipedia------
伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅又は任那とも表記された[1]。あくまで現代の韓国人が加耶と名づけた名称であって、文献上、考古学上は【加耶】という文字は存在しない。
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※これらのことから、670年に「日本」と号す以前、倭国は、朝鮮半島の南部を含む任那国連合(合衆国、同族国家)の一部であったのではないか、、、、。

そして、国家と王家のルーツを示すための日本書紀、古事記、は地上から消えてしまった任那の国の歴史をそのまま引き継いだのではないのか、、、、、。

※藤原氏が百済出身(加羅系百済人?)であるといわれることから、百済の歴史をコピーし編集したともいわれる。

日本の国家が安定するたびに、国主はそのルーツに思いをはせて、度々の朝鮮半島への派兵を行ってきたのではないか、、、、。派兵の直接的な要因以外に日本人の血が、半島に向かうのではないかと、、、思ったりするのです、、、、、、。

日本書紀では、その目的である「万世一系」を整合するために、欽明天皇は仁賢天皇(即位3年;実在しないという説もある)の第三皇女が母親とされている。

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ヤマト:倭:yamai-toy yamaは亀、toiは連合  亀=加羅国 :加羅国連合

※ヘブライ語アラム方言では、「ヤ・ウマト」と分解され「神の民」という意味になるという。


高千穂:takai 偉大 または tak 父 tippa 山
takai-tippa:偉大な山、父の山、祖先の山

スメラ-ミコト:cemmal 神、王、 mi 天、高位 、koduku子
cemmal-mi-koduku:

※天皇の公式名「スメラ・ミコト」は、古代ヘブライ語アラム方言で「サマリアの大王」を意味し、初代神武天皇の正式名「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は、「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になっているという。「サマリア」とは北イスラエル王国の首都である。

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※さて、欽明天皇の三代前、「継体天皇」であるが、謎が多い、、、とされている。

まず、継体天皇の前の天皇は「武列天皇」であるが、日本書紀では悪辣非道、酒池肉林の限りをつくす悪政、人を殺すのが楽しみというハレンチな設定、、、これは、フィクションという見方が多い。
前の政権を悪人にしたてて、次期政権の正当性を構築するためのもので、中国文献の借用とする見方がある。
つまり、政変があったのだ、、、、。

武列天皇に皇子がいないので、この天皇で応神天皇の正系は断絶する、、、、。

そこに、「男迹王(おおどおう)」=継体天皇が、越(日本海地方:越南、山陰)から応神天皇五世の孫というふれこみで、王家の血を継ぐ「手白香皇女」と結婚する、ただし継体天皇は57歳のバツイチである。
しかも、大宝律令では皇親は四世までとされており、五世とされた継体天皇の系譜は疑問視されている。

継体天皇の即位には、「大伴金村」が画策したといわれている。

※大伴金村 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E9%87%91%E6%9D%91

継体天皇(507~531)は今までの王朝とは別の王系統であるといわれる。

一説には百済の東城王(479~501)が死亡した、となっているが、実は、倭国に渡来したというのである。

河内で即位した継体天皇は、その後、山背の筒城(京都府)、乙訓などに都を移転しながら、20年かけて大和に定着する。
つまり、前王朝(加羅血統)の豪族を屈服させるのに20年かかった征服者という見方がある。





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晩年の磐井の乱

(筑紫の国の磐井が、新羅と手を組んだ反乱、、。
継体天皇:大伴金村の外交戦略により任那の4県が百済に譲られたことに反抗したとも言われる。
また、継体21年、近江毛野臣が6万の軍勢を率いて任那に赴き、すでに新羅に滅ぼされた南加羅の復興を諮ったが、、、新羅の渡来人が多い磐井勢が反乱し妨害した、、。
そして磐井勢の豊前の国は「秦王国」と言われている)

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※秦氏についてメモ

秦氏=新羅系渡来人というには当てはまらない、大きすぎる存在だ。

応神天皇の時代に、百済から1万人とも2万人とも言われる秦族を引き連れて帰化したとも、、。
秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。彼は聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。

秦氏は百済人とも新羅人とも言われるが、思うに、、どちらにも属する東アジアに移動してきた渡来人であろう、、、。


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弓月君と言う名称で暗示されるように、秦氏はペルシャからウィグルを経由して秦国にやって来た。

当時の中国の西域には、大月氏、大宛(たいえん)氏、大夏(たいか)といった人々がいたと言う。

その西域諸国のウィグルあたりに、「三日月王国」という国があり、中国の史書「資治(しじ)通鑑」では、この国を「弓月(クルジャ)王国」と表記していると言う。

つまり、秦氏はペルシャからウィグルを経由して中国の秦の国の万里の長城の建設に従事した。

しかし、この苦役に耐えかねて朝鮮半島へやってきて、馬韓の王が秦の労役から亡命人した秦氏を東へ移し、土地を与えたとされる。

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景教は、キリスト教のネストリウス派の宗教であり、聖徳太子の時代には、福音書の内容などが日本に伝わっていた。

聖徳太子の家庭教師であった秦河勝(はた・かわかつ)は、秦氏で景教徒であったと言う。

このルートから聖徳太子母子は景教徒となり、隠れキリシタンになったと言う説がある。

その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用されたとの可能性を唱える研究者もある。

また、唐の時代の景教の寺院は大秦寺と呼ばれていた。

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※三日月王国の位置
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※秦氏の経路
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原三国時代(BC108 - 4世紀中葉)
楽浪郡 :中国の出先
馬韓 :後に百済になる地域
辰韓(古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という[8]。辰韓十二国があり、その中の斯蘆国が発展して、国家の態をなしたものが新羅と見られている。)
弁韓:後に任那になる地域
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※神奈川県の秦野では、、、、、、
http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/hadano/index.html

この国の歴史は、知らなかったでは済まないと言えるほど、、秦氏の役割は大きい、、、ようだ、。
しかし、、、

ちょっと、長すぎた、秦氏のテーマは大きすぎるので、、、もとに戻そう、、、、。

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継体朝の後期となって、継体朝派(大伴氏)と欽明朝派(蘇我氏)の内乱状態がつづいたと思われる、、、、


仲間の反乱が起こり、継体天皇は皇子とともに(蘇我氏に)暗殺されたと思われる、、、。
「聞くところによると、日本の天皇、太子、皇子が共に亡くなった(百済本紀)」

この後に蘇我氏の押す「29代、欽明天皇」が即位し、大伴氏は没落する、、、、。
欽明天皇の即位は大伴氏に対する「蘇我氏」の勝利の結果であったのではないか、、、、。


※しかし、このあと、、欽明天皇に百済の聖明王から仏像が、仏典が献じられたことから、、、、、

大臣(おおとみ)となった蘇我氏と大連(おおむらじ)物部氏の古代宗教戦争+部族闘争に発展する、、、。

とにかく、天皇を巻き込んだ戦いは、延々とつづく、、、、

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31代用明天皇崩御の後、物部守屋は30代敏達天皇の弟の「六穂部皇子」を推し、蘇我馬子は29代欽明天皇と妹の子「泊瀬部皇子」を擁立、、、不徳を理由に「六穂部皇子」を殺害する、、、当然、戦乱は激化する、、、

当時、厩戸皇子(うまやど)と言われた聖徳太子は、蘇我氏の軍勢に加わっている、、、

「諸天の助けによって勝利を得れば四天王のために寺を建立し仏恩に報ぜん」と祈願して、戦いに臨んだ、、
これが、現在の大阪の四天王寺である、、、。

結果、蘇我氏は物部氏を倒して「泊瀬部皇子」=「崇峻天皇」を即位させる、、、
ところが、、、、592年、蘇我馬子に疑念を抱く「崇峻天皇」はあっけなく葬られてしまう、、、、

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蘇我馬子は敏達天皇の皇后(欽明天皇と馬子の妹との第2女)であった推古天皇即位させ、、女帝を擁護し、権力を拡大を計る、、、

※このとき推古天皇は、摂政として天才「聖徳太子」を迎え、、、、
「官位十二階」、「憲法十七条」などを設けて、官僚制度を確立し、蘇我権力の抑止に勤める、、、

太子は考えていた、、、、、。
「たとえ、大叔父であっても、妻の父であろうとも、、、、秩序の中にあるべき、、」と、、、

だが、、、

「厩戸の若造が、、、、と、、、」蘇我馬子は逆に、「冠位を辞退」して特権を維持したのである、、、。

これに、聖徳太子は
「和を以って貴しとなす、、、、(十七条憲法、第一条)」 を定めて内政の安定に努力する、、、。


国内政治の安定に心を砕く聖徳太子であるが、外交では、小野妹子を遣隋使として朝貢、、

ここでの、聖徳太子は実にいい度胸だ、、、、

有名な国書、、、

「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや、、」

隋の煬帝は、このタカピーな文書には怒ったが、倭国に使節団を送り、倭王は使節団を大いに歓迎し、親善関係を維持している、、(ここでの倭王とは聖徳太子のことといわれている)

聖徳太子の天才的な政治資質によって、内外共に賢者ともいえる政治が行われたが、、推古30(622)2月、太子没
、、、そして推古天皇崩御(628)後、、、、蘇我氏は、もはや、朝廷を意のままに動かす権勢を誇った、、、しかし、、。

、、、その豪族「蘇我氏」も、、、やがて、、、天皇族の反乱に会う、、、、

大臣「蘇我入鹿」が中大兄皇子(天智天皇)らによって暗殺され、滅ぼされるのです、、、
これが歴史の「大化の改新 」、、、、。

こうして、短縮すると天皇家の一系とは、渡来系王朝どうしの、暗殺につぐ暗殺の歴史のように思われてしまいます、、、

-------Wikipedia------------------

大化の改新(たいかのかいしん)は飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)の後に行われたとされる(この暗殺事件もまとめて大化の改新と呼ぶこともある)。天皇の宮(首都)を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点となったとされる。

また大化は日本最初の元号である。つまり日本という国の起源がこの時代にある。

大化の改新の経過 [編集]
以下は『日本書紀』などに記されている大化の改新の経過である。

乙巳の変 [編集]


蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。
中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(天皇家)へ権力を取り戻すため、まず軽皇子と接触するも、その器ではないとあきらめる。

そこで鎌足は、中大兄皇子に近づく。蹴鞠の会で出会う話は有名。
共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練ることになった。
中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚。
石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。

そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。
翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った。

この蘇我氏本宗家滅亡事件をこの年の干支にちなんで乙巳の変(いっしのへん)という。
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※どうやら、この頃から、王家は半島への執着を捨て、日本に盤石な王権国家意識を定着すべく、理論構築作業に入った、、、、

やがて、王家が、豪族を押さえ込み、王家の血のみが国を統治する、、「王家千年権益確保の戦略」が日本に定着する、、、、、、、。

※王家の血のみが国を統治することになれば、「万世一系」を示さなければならない、、、、そのためには事実を隠し、歴史の改竄と神話によらなければ説明できない、、、、。

しかし、国の総力をあげたこの戦略は、見事に成功した、、、、。


、、、いや、いや、、、そうすることでしか、この時代に、この国を統治することは出来なかった、、、、錦の御旗をたてることによって、武力による混乱を平定することが出来た、、、王の詔を持って国家の意志を伝えることが出来た、、、その時代の知恵だ、、、天才聖徳太子も苦労して官僚統制、朝廷の権威のバランスに苦労した、、、のだ、、

どうやら、、、、長きに亘った大和王朝の戦いは、、、進化して、ここで日本という国になった、、、。


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なにか、、とても、、ややっこしいのだが、、、。



倭国に影響を及ぼし続ける朝鮮半島だが

欽明天皇が即位したころから、半島は三国時代(日本は平安時代)、、任那加羅国が滅び、、、、、
やがて百済も新羅も高句麗王朝に滅ばされ(日本は平安後期)、、、、、、
さらには高麗もモンゴル帝国「元」に浸入されに大きな打撃を受ける(日本は鎌倉時代)、、、、、、

1392年になって、ようやく統一朝鮮王朝(日本は室町時代)となる。

むしろ、幸運にも大モンゴル帝国の攻撃から逃れられた日本の島の中で、、、
半島の戦乱を逃れるように渡来した任那、百済、新羅の人々の末裔は生き延び、その個性を色濃くしたのではないのか、、、、。





-------------つづく------------------------


※源氏と平家は新羅と百済の戦い

http://tokatu1.at.webry.info/201002/article_1.html


















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