龍馬にはかなわん 高知城 山内家公邸 

2010.12.23 高知市に入る前に、松山で一泊した、、市内で食事をした際に、となりの席のおばあちゃん(失礼)二人と会話が弾んだ、、明日は高知に行きますが、、、、
「松山はほんとに綺麗な街ですね、、ここに住んでいるだけで誇りですね、、」お世辞ではなく、ほんとに美しい街だと思う、、、、、、
今は、坂の上の雲」で盛り上がってますねえ、、、立派な方も多く輩出している、、観光客も多いでしょうね、、」

「いやあ!、、龍馬さんには、かないませんなあ!」

と二人が同時に返してきた、、、、。
NHK福山龍馬伝の観光集客力は、さすがに大きい、、、、、、


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高知市内は、龍馬伝効果を最大限活用すべく最後のイベントに余念がない、、、
おそらく、観光資源が与える経済効果は、この街にとって重要な政策課題であろう、、、
150年たって、、、龍馬は高知に大きな経済効果を与えている、、、、

「これで、、、みんなーが、、ええ気分になるがじゃ、、きっちりもうけや、、」
なんて龍馬が言ってるだろうか、、、

2010.12.24 高知に入る、、夜に、観光客ばかりか市民が多く集まるフードコート「ひろめ市場(帯屋町)」で食事をとることにした、、ここでは、鰹の「明神丸」でタタキで日本酒をいきたい、、しかも安い、、、

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<鰹はその場で火を入れる>
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<この奥も同じ位のスペースがある>

ようやく、席を確保し、同席の男性と話を交わす、、、、宮崎県で暫らく学校と仕事とで過ごしたが、10年前に帰省した、、今は観光ホテルでAM9:00からPM3:00まで、、清掃、ベットメーキングの仕事をしているという、、、
ここには、一日一回、毎日来るという、、酒と食事はこの一回で充分だそうだ、、、39歳未婚、、

言いすぎだが、、彼の生活も、今は龍馬が支えているんだろうか、、

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最初から、このホテルを探したわけではなかった、、しかし、、きっと、ここに泊まれと誰かが決めたのだろう、、
インターネットで予約したのは、山内容堂の別邸に建てられた「三翠園」であった。

「車はどこに置きますか、、」と警備員さんに尋ねた
「この門から入って下さい」
「エー、、よろしいんですか」
この立派な門から、レンタカーでゆっくりと入った。
いい気持ちではある。

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豪華なホテルです、、、ご安心ください、、、やや、旧式だがリーズナブルな部屋もあります。
ちなみに、1泊朝食付き¥6500-で宿泊しました。自慢の風呂、朝食は本館と一緒に使えます、また駐車場は無料ですからお得です。

大きな門の横は、下屋敷長屋で、土佐藩の家来が暮らした長屋で、重要文化財となっています。
各地の土佐藩邸に、泊まったものと同じ利用だったのか、、、
2階建てになっており、一階は六畳ほどに仕切られており、二階は仕切りがありません、、現在は展示物が置いてあります。
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一階は7区画に分けられ、四部屋は畳敷き(※図面から部屋は12+3畳、10畳3部屋)、その他は板敷きと土間、、2階は三部屋ですが、大部屋が中心で両脇に一部屋づつ小部屋がある。
警護番役の足軽らの住居といわれる、、、、二階には夕顔丸の模型などが展示してある、、、、。(現在の建物は昭和56年改修復元したもの)、高知市教育委員会資料より

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高知といっても、広いですから、、警備や公務のときに、このような長屋も利用したのでしょう。
つまり、従業員の「社宅」でしょうか、、、

龍馬の生家は、歩いて5分ほどの町場ですから泊まる必要はありません。
意外と、城から近い場所にありました。

岩崎弥太郎生家や中岡慎太郎生家は50km以上離れていますから、車で1時間は掛かります、、、当時はどうやって城下に来たんだろうか、、城下まで7時間位はかかります、、龍馬とは、えらい違いですね、、、。
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才谷村出身で城下で質屋を始めた八兵衛から、その三代目のころの才谷屋は、商家としてさまざまな事業を手掛けて、、、高知城下町で「豪商ご三家」にまでなっていた、、郷士株を買い郷士となった坂本家ではある、、、

とはいえ、土佐藩においては、郷士と上士との差別は激しく、、郷士は上士の住む「郭中」には住めなかった、、、、距離は近くとも、、、
高知城を目の前にしても、そこは上士の住む、「郭中」地域ではない、、、、、郷士は下駄を履いてはならぬ、、
若い龍馬の中に、ふつふつと、現体制に対する疑問が湧き上がっていたであろう、、、

そんな、世の中でも、、、
ようやく、、遠い海の向こうから世界が飛び込んできた、、、
海外の捕鯨船が、室戸のはるか沖ではあるが航行する時代に入っていた、、、、

土佐中浜の万次郎が漂流の後、、アメリカの文化を背負って10年ぶりに琉球、薩摩を経由して土佐に戻った、、、河田小龍によりその体験が記され(漂巽紀畧)、、後に龍馬は小龍を通じて海外事情を知ることになる、、、


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※岩崎弥太郎ですが、嘉永元年(  )15歳の時に、高知城下において家塾を開いていた岡本寧浦(ねいほ)の紅友塾に預けられ、学問の才能を認められ、その後二十歳の時に、学者の奥村慥斎(ぞうさい)の従者として江戸に同道する、、、父弥次郎が問題を起こし、急遽帰郷するも、弥太郎も侮辱罪で投獄される、、、
安政4年(1857)追放処分の後、城下町近郊の神田村に居を構え近隣師弟を集めて授業を行う、、、このとき弥太郎の指導を受けた者に池内蔵太、近藤長次郎がいる、、、。
安政5年には、吉田東洋の少林塾に入門する、、、
吉田東洋が復職すると共に、藩庁に召抱えられ、、長崎貿易など重要な仕事を任される、、。

従って、生家には18歳までしか居住していなかった、、、ので、、通勤は問題ありません。
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※ちなみに、龍馬の生家には「ホテル南水」が建っており、33号線(中村街道)路面電車沿いに記念碑がある、、
、、、敷地の裏側は、水路がある通りがあり、、、やや昔の面影を残す、、
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反対側に「龍馬の生まれた町記念館」があるが、生家のことを聞いても、すぐ近くに記念碑があるとしか言わない、、

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<明治末期の坂本家>
写真からすると中村街道側と思われるので、この裏側が水路通りで家族が出入りしたと考えられる。

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<坂本家一族:明治31年 坂本直寛(後列左から二人目)家族が北海道に移住の記念に撮影>

坂本家関連
坂本清次郎(坂本権平直方の養嗣子):維新後に高知で中立社高陽新報の仮編集長などを務めたが、広島で没する、、没年不詳

新宮馬之助:北海道開拓に従事、浦賀海兵団、海軍大尉 51歳没、、
小野淳輔:函館裁判所 参謀、函館府権判事、明治2年罷免、明治4年龍馬の跡目を継ぎ坂本直と改名、宮内省で判事官7等、、57歳没、、耶蘇教を信奉、、、とある。妻子は北海道に移住、、、

お龍:
慶応3年12月2日、、長崎の海援隊浦田運次郎が下関に行き、三吉慎蔵に龍馬の横死を伝える、、三吉慎蔵よりりょうに告げる、、、

それ以前5月8日、、龍馬は「いろは丸」事件に奔走しており、この結果によっては命が危ぶまれると思っていた、、
三吉慎蔵に、おりょうのことを頼んでいる書簡がある、、

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その後、暫くは長府の三吉慎蔵の家に引き取り、、長府侯は、扶持米を支給している、、、、
「海援隊の諸士協議の上、、、坂本姉の住処に護送す」(三吉慎蔵日記)とあり。、、、おりょうを龍馬の姉乙女の居宅に送り届けている。、、、、
しかし、おりょうは乙女とは気が合わず、坂本姉の家には数ヶ月いたのみで、、京都に戻った、、、

しばらく京都滞在後に、、、「東京にはまだ、西郷さんや、勝さん、海援隊の人もボツボツ居るので、、」
と明治4―5年頃、彼らを頼って上京する、、、、

海援隊の仲間は洋行して不在、暫く支援した西郷隆盛も、明治6年には、帰国する、、、、

おりょうは、流れ流れて、、神奈川宿に、、、三浦郡豊島村深田にて、西村松兵衛と知り合い入籍する。
伝えによれば西村松兵衛は、、、横須賀の大滝海岸の盛り場に荷をおろし、、、現今のテキ屋に類する大道商人、、、。
、、、、なにやら、、、柴又のトラさんを思い起こしてしまう、お仕事です、、、、

おりょう、、、明治38年初冬に倒れ、、、翌年1月15日没、、享年66歳

西村松兵衛は、奔走して寄付を集め、、大津信楽寺に墓を建てた、、「贈正四位坂本龍馬之妻龍子之墓」とある、、、
ただし、、、建立者は同居していた妹の「中沢光枝」と刻まれている、、、、。

※お龍の再婚には、安岡金馬が媒酌の労をとっている、、、
安岡は陸奥源次郎(宗光)と海援隊大阪で、商業活動の後、土佐商会所有の順海丸の船長を勤める、、
台風で船を失うなどあり、、、大津で湖水判事の職、、横須賀で海軍機関学校教授、、、明治27年没(57歳)

















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