北川村の中岡慎太郎 & 龍馬は薩長同盟で22億円成約 

2010.12.25 14:50 弥太郎の生家を、そこそこに中岡慎太郎の生家に向かう、、、、早くしないと室戸岬に着く前に陽が落ちてしまう、、、、

「奈半利町」という字が、なかなか読めなかった、、、「なはりまち」と言われれば、まあ、そうなのだが、、、

「土佐くろしお鉄道」はここで執着駅となっている、、

町の中を通り抜けると、まもなく「中岡慎太郎生家」という看板に出会う、、順調だと思った、、、
新しい道路が引かれている、、、道標に沿って道路に入ると、、、高速道のような快適な道だ、、、前後には車は無い、、80km/hで快適に飛ばす、、一瞬は100km/hを越えたかもしれない、、気が急いでいるのだ、

トンネルを三箇所ほど抜けて、、新道の終点になる、、、先ほどからカーナビがおかしい、、新道に対応していないのだ、、、くの字に曲がる方向に「中岡慎太郎生家」の道標が見えた、、、しかし、先に2本の道がある、、カーナビが再び右側の道を青く示している、、、まあ、終着は同じだろうから、、ここは、カーナビに従って200m走る、、、


「エー、、、なんぞねー」元の道に戻っている、、、分離帯があり、Uターンはできない、、トンネルは当然のように一方通行、、、「どーして、、、どーてやー、、」、、なにやらNHK龍馬伝の香川照之が演ずる弥太郎になってしまった、、、
結局はカーナビが示す、、旧道に戻されて、、危ない山間いをはしることになる、、、「もうええ、、カーナビの言うとおりに行くわ、、、」、、、谷あいは、もう薄暗くなってきており、風が冷たい、、、
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「まだ、、館内は入れますか?」最初に聞いた、、「4時半が閉館です」、、と受付の女性が答える、、、現在4時10分だ、、、足早に館内を回り、、、禁止である写真撮影で、、内容を残すことにした、、、他に来館者は見当たらない、、、
「ところで、、慎太郎の生家はどこにあるんでしょうか?」、、、再び受付嬢に質問、、、、「あそこに、、藁葺き屋根がありますね、、」と指をさす、、、一段坂を下りたところに生家跡があった、、、。
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<屋敷は修復して新しい、石垣に当時を思った、、>

慎太郎は文武に真剣であった、、、、
天保9年(1838)安芸郡北川郷で大庄屋の長男として誕生、、、四歳で村の松林寺で勉学、七歳から隣村の漢方医島村岱作の塾に学ぶ、、十五歳には安田浦の岡本塾(岡本寧甫の実家)、高松塾(高松順蔵の妻千鶴は龍馬の長姉)、嘉永六年(1853)には、藩校「田野学館」が創立されると直ちに入学した、、、

■武市半平太との出会い

安政二年(1855)武市半平太が田野学館に出張教授として剣術を教えることになり、、、
慎太郎は武市に敬服し、、武市を追って、高知の半平太の道場に入門する、、、
間崎鉄馬(経史)、竹村東野(南学)にも学び、、、土佐藩砲術指南、吉村賢次郎にも入門している、、、、

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二十歳で結婚、、病父に代わって大庄屋見習いとなる

度々の飢饉に、対応した逸話がある、、
安政5年の大地震、、、そして安政のコロリ疫病の流行、、、食料は不足し、困窮がひどい、、、慎太郎は自家の山林、田畑を担保に、、、近村の富豪から米麦を借り入れ、困っている村民にほどこした、、、、

なお、足りない、、、近隣の庄屋とともに、藩に迫って800両を借り入れて戻ってきた、、、
村人は三拝九排して感謝の言葉を述べた、、、「そんなに借りて、、困りはしませんか、、」と心配に、、、
「なんぼ、北川の百姓でもくわにゃあ、生きていけん、、そうビクビクするな」と言ったそうだ、、、

また、ある飢饉では、奔走して薩摩芋500貫を手に入れ救済したが、間に合わない、、、貯蔵米の官蔵を開けねばならない、、、官蔵であるから藩の許可がいる、、、国家老の屋敷に訪問、、北川から土佐屋敷に着いたのは夕刻になっていた、、すぐさま訪問したが取次ぎ役人に「明日出直して来い、、」と言われる、、、

翌日早朝、門前に見知らぬ青年が姿勢を正し座しているのを、国家老の桐間が見て、声をかける、、
慎太郎の必死の陳情を聞くことになる、、、桐間は、心意気を感じて、その場で許可を与える約束をする、、、
慎太郎の肝胆の強さを思わせる話である、、、



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<北川村の若き庄屋として信頼された慎太郎>

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<中岡慎太郎記念館>

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武市半平太とともに土佐勤王党を立ち上げたが、龍馬が9番目、中岡は17番目に署名している、、、
龍馬が文久2年3月に脱藩して、、江戸の勝の門人となるころ、、慎太郎は、武市とともに尊攘運動に明け暮れた、、、

長州藩の久坂、高杉などとの交友もむすんでいる、、、


■脱藩

文久3年9月5日、、土佐勤王党への弾圧は厳しく、、帰郷する機会を失い、脱藩して長州に亡命する、、、、、
※三田尻(山口県防府市)に亡命した中岡は、ここから「石川清之介」を名乗っている。
長州藩の友軍、、、外郭団体、、、協力会社、、などと言ったら怒られるだろうか、、長州藩とともに戦う、、、草莽の士となった、、、、

文治元年、禁門の変(  )に合う、、慎太郎は父母に遺書を書き、長州藩兵として出陣する、、、ここでは、負傷して長州に敗走している、、、

下関戦争(   )にも参戦、、、このころ長州は窮地に追い込まれている、、、

※土佐藩脱藩浪士が長州藩に身を寄せ、、、西郷の動きをじっと見ていた、、、
中岡慎太郎と土方元久だ、、、脱藩浪士という藩に囚われない立場で「時勢」を見ていた、、、
今こそ薩長両藩が反幕同盟を結ぶことが必要だ、、、

■薩長同盟と龍馬

中岡は、三条実美ら五卿の転座問題を抱えて、長州とは宿敵となっている薩摩に向かう、、、
寺石貫夫なる変名で西郷隆盛と会見、、、薩長同盟に向けて懸命に動く、、、

一方、土方元久は、下関に赴き、桂小五郎の説得に動く、、西郷、桂の会談を設定するためだ、、、

慶応元年5月5日、、、下関で土方は、思いもかけぬ人物に出会う、、、、
坂本龍馬だ、、、龍馬がそこに現れたのだ、、、中岡の考える薩長連合の策を龍馬に話すと、、、
龍馬は手を打って喜んだ、、、

「これは、おもしろい、、妙案ぜよ土方あ、、これいかないぜよ、、おんしら頭ええのう、、、」と言ったかどうか、、、

翌日、龍馬は、その頭の回転と、ハッタリで桂を説得する、、、それでも、、慎重な桂を説得するのに3日間かかった、、、

後は、中岡が西郷を下関に連れてくれば、、、

だが、、、、5月21日、、中岡だけが下関に帰ってきた、、、、中岡はひたすら詫びるが、、、桂の薩摩に対する不信は更に深まってしまった、、、、、龍馬の落胆も大きかった、、、

しかし、、、そこが龍馬の大きいところだ、、、、長州は貿易が封鎖されている、、、、長州が望む、銃器買い入れを、、薩摩名義で、、亀山社中が進めるのだ、、、それで双方の信頼関係は修復する、、、、

※いや、、龍馬は初めから、長州に武器調達の話をしにきていた、、のではないか、、、
中岡の理念より、、商人の血を引く龍馬は、実利で薩長を結びつけようとしていたのではないのか、、、

それが、思いがけぬ展開で、薩摩名義で、亀山社中が武器輸送をするという、、仕事ができる、、

それは、亀山社中にとってはビックビジネスとなる、、、、貿易はグラバー商会が請ける、、、
この商談は、、グラバー側の試算だと、、

■22億円の成約
ミニエー銃、ゲベール銃、ピストル4300丁、単価18両(43万2千円)、計7万7400両(18億5760万円、、、他で総額22億円、、、そのほか、、近藤長次郎のセールスで、蒸気船5万両(12億円)も成約している、、、、(木村幸比古 政商グラバーの役割 学研 歴史群像シリーズ)※為替は未確認です。

※グラバーについては、、、長崎に行く予定なので、別に記事するが、マセゾン商会の支店長だったグラバーが、独立し、成功する大きなきっかけにもなった、、、、

また、亀山社中にとっても、設立以来、まともなビジネスは出来ていないので、、これでモチベーションがあがる、、、

ここでは、武器商人とか死の商人とか、、言うのはやめよう、、、現実問題として解決しなければ、、歴史は不幸な方向に進んでしまうかも知れない、、、、。


ついに、、、、、
慶応2年(1866)1月21日、、、京都の小松帯刀(たてわき)邸において、木戸考允、西郷隆盛が坂本龍馬の立会いにより、、、歴史的な、、薩長同盟が成立した、、、

薩長同盟が龍馬の周旋で成ったのは間違いない、、、ただ中岡の内実の功労は龍馬より多いと語る人も多い、、、







-------この稿は書きかけです------


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