野原ノ松ノ林ノ陰ノ小サナ茅葺小屋ニイテ

遠い東北の血が、共振させるのか、、この詩に触れるたびに振るえる、、

※宮沢賢治が生まれた頃、1896年(明治29年)、、東北地方に大地震と津波が発生している、、、。
賢治の、、人生に大きく影響を与えたと言われている、、、

大自然の運動が、、、ニッポンの歴史に、、革命的な、、意識と人とを、、生み出す、、、

その波動は、、、遠く鎌倉時代とも、、繋がっていた、、、、。

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■雨ニモマケズ   
 

雨ニモマケズ
風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク
決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラツテヰル

一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジヨウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病氣ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ

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※昭和6年11月、賢治が再び療養生活に入ったころのメモだ、、、、
2年後に他界する、、、享年37、、、、。

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雨にも負けず、、、、

風にも負けず、、、、

雪にも
夏の暑さにも負けぬ、、、、

丈夫な身体を持ち、、、、

欲は無く
決して怒らず
いつも静かに笑っている、、、、、、

一日に 玄米4合と
味噌と少しの野菜を食べ、、、、、

あらゆることを
自分の勘定に入れずに
良く見聞きし 分かり、、、、、

そして忘れず
野原の松の林の陰の小さな茅葺小屋にいて

東に病気の子供あれば
行って看病してやり、、、、、

西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い、、、、、、

南に死にそうな人あれば
行って 怖がらなくてもいいと言い、、、、、、

北に喧嘩や 訴訟があれば
つまらないからやめろと言い、、、、、

日照りの時は 涙を流し、、、、、、

寒さの夏は おろおろ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ、、、、、、

誉められもせず 苦にもされず

そうゆうものに私はなりたい、、、、、。

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※カナ文字の方が、気持ちが伝わってくる、、、、

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※宮沢賢治の時代、、
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■『銀河鉄道の夜』


、、、「ジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。
そうだ僕は知っていたのだ。
勿論カムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。
それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、銀河というところをひろげ、真っ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした」。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0900.html

必読です↑、、、、、

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 ジョバンニが「いまぼくたちが居るところ、ここだろう」と指さしたのは白鳥座の停車場。

「二〇分、ていしゃー」の合図で降りてみると、改札口は水晶細工の銀杏に囲まれ、幅の広い道が銀河の青光の中に通っている。
そこに近づくときらきらとした川が流れ、「銀河の水が燐光あげてちらちらと燃えるように」見えてくる。
 その先の崖の下はイギリス海岸のように白い岩でできていて、そこに「プリオシン海岸」という瀬戸物の標札が立っていた

 御存知、『銀河鉄道の夜』の目映い光景である。

 その美しさに眼を奪われているとわからなくなるのだが、この物語には、少年の心にはすぐは見えないような驚くべき特徴がいくつも含まれている。
 なんといっても銀河鉄道は「死者の列車」であって、カムパネルラは「死者」なのである。いや銀河鉄道に乗り合わせた乗客はすべて死者なのだ。それどころか、この鉄道は死後の銀河をめぐっていた。
 そもそも『銀河鉄道の夜』においては、この目映い銀河鉄道の場面は「六、銀河ステーション」以降の光景であって、物語はそこに至るまでに「一、午后の授業」から「五、天気輪の柱」まで、まったく別の場面を展開させている。そこで、一転、銀河鉄道のファンタジーが奏でられる。けれども、ジョバンニが夢からさめると、カムパネルラが川に落ちた少年を助けようとして死んでしまったという話になる。

 この構造はやさしくない。

<松岡正剛「千夜千冊」 銀河鉄道の夜>

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※真っ黒な空に、散らばる多くの白い点は、、津波で亡くなった人たちなのか、、

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※今の東北の現状を思いながら、、、
   力になれない自分の、、思い、、、

 、、、宮沢賢治は当時、、何を思ったのか、、、


※映画 「銀河鉄道の夜」
https://www.youtube.com/watch?v=RyOJx_ILaYo
画像


銀河鉄道の夜 蠍の火Story
https://www.youtube.com/watch?v=hEpSRTAz4rY
画像


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■『グスコーブドリの伝記』

驚きました、、、、
宮沢賢治は、、この時に既に童話『グスコーブドリの伝記』の中で「潮汐発電所」を海岸に2百も建設する話を書いていました、、

    七 雲の海

 それから四年の間に、クーボー大博士の計画どおり、潮汐(ちょうせき)発電所は、イーハトーヴの海岸に沿って、二百も配置されました。

イーハトーヴをめぐる火山には、観測小屋といっしょに、白く塗られた鉄の櫓(やぐら)が順々に建ちました。
 ブドリは技師心得になって、一年の大部分は火山から火山と回ってあるいたり、あぶなくなった火山を工作したりしていました、、、、、

映画「グスコーブドリの伝記」
https://www.youtube.com/watch?v=EF4Az9IgL6o
画像


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※できることなら、、、今こそ、、クーボー大博士の計画どおり、潮汐発電所を2百基、、東北の海岸に設置して欲しい、、、そして、東北の原発は直ちに廃止して欲しい、、。
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画像

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<スコットランドの潮力発電>
拙者関連Blog
自作マイクロ発電への道--⑤ 波動(波力、潮力)発電
http://tokatu1.at.webry.info/201107/article_5.html

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■田中智学との出会いと決別

三陸地震津波、、凶作、、東北を襲う災害と困窮する農民、、、宮沢賢治の心は痛んだ、、、
やがて、、、法華経、、田中智学、、国柱会、、との出会い、、、そして決別、、、、そんな中で賢治の詩は生まれている、、、あまり、世間には出ない、、田中智学との決別の詩の激しさを、、どう聴けばいいんだろうか。

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※宮沢賢治の時代、、
wikipedia抜粋copy-----

1896年(明治29年)8月27日
岩手県稗貫郡里川口村(現・花巻市)に質・古着商の宮澤政次郎とイチの長男として生まれ、戸籍の届出は1896年8月1日付けでなされた。

賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」が発生して岩手県に多くの災害をもたらした。
また誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で大きな災害が生じた。
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質店の息子であった賢治は、農民がこの地域を繰り返し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに家財道具などを売って当座の生活費に当てる姿をたびたび目撃、これが賢治の人間形成に大きく影響したと見られる。

1903年(明治36年)
花巻川口尋常高等小学校に入学。鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」や「石こ賢さん」と呼ばれる。
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※ 金槌をもった登山にもあけくれた。岩手山には中学時代だけでも8回にわたって登頂した(生涯では30回を数える)。その南麓の小岩井農場に足を向けたのもこのときだ。童話『グスコーブドリの伝記』のイーハトーブ火山は岩手山である。

<松岡正剛「千夜千冊」 銀河鉄道の夜>

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※本人は自覚していたのか、、鉱物への執着は「山師」の血が騒ぐのだろうか、、、

童話『グスコーブドリの伝記』の中でも「山師」という言葉が出てきます、、、

 九 カルボナード島

 それからの五年は、ブドリにはほんとうに楽しいものでした。赤ひげの主人の家にも何べんもお礼に行きました。
 もうよほど年はとっていましたが、やはり非常な元気で、こんどは毛の長いうさぎを千匹以上飼ったり、赤い甘藍(かんらん)ばかり畑に作ったり、相変わらずの山師はやっていましたが、暮らしはずうっといいようでした。、、、、、

ここでの「山師」は、ひとやま当てやろうという、、野心の方ですが、、、、

※参考拙者Blog「佐渡へ--①(佐渡金山と山師) 」
http://tokatu1.at.webry.info/201108/article_2.html

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1909年(明治42年)
旧制盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。鉱物採集に熱中。
「HELP」のあだ名がつく[3]。岩手山・南昌山などの山登りにも熱中し、、水晶を採集、、

家庭の方針で進学の見込みがほぼなかったためか、教師への反抗的態度をみせ、大正2年(1913年)、寄宿舎の新舎監排訴の動きにより退寮となり、盛岡の寺院に下宿する。

1914年(大正3年)
盛岡中学卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。この時、看護婦に恋心を抱くが片想いに終わる。また看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった

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※とくに賢治10歳のときに、大沢温泉に夏季仏教講習会のためにやってきた暁烏敏(あけがらす・はや)の世話を父親に命じられたときには、得意になってこの仏教改革者の身の回りにくっついていた。

暁烏敏は、清沢満之に次いで近代浄土教に革新をもたらそうとした僧侶だが、その活動も精神もはなはだラディカルで、アナーキーだった。
賢治にはどこか、このような革命家に一発で染まっていく気質があったようだ。
が、だからこそ、宮沢賢治なのだ。

<松岡正剛「千夜千冊」 銀河鉄道の夜>

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※暁烏敏(あけがらす・はや):??この異端は、何者なんだ、、!、、、、、、、、、、、、。


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生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける[4]。

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<赤い表紙とサンスクリット語は、病んだ賢治の心に強烈なインパクトを与えた>

※宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか その1
立正大学非常勤講師 慶應義塾大学非常勤講師   正木晃
https://www.youtube.com/watch?v=OQnEDI-QYhA

※祖父清六(賢治の弟)から聴いた宮澤賢治
https://www.youtube.com/watch?v=EXvS494Ubss

拙者関連Blog「方便品第二サンスクリット」
http://tokatu1.at.webry.info/200912/article_5.html
「D地点で誕生した googlの旅」
http://tokatu1.at.webry.info/200910/article_1.html

1915年(大正4年)
盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学。関豊太郎教授の指導の下で地質調査研究をする。大正6年(1917年)、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌『アザリア』刊行

1918年(大正7年)、3月
得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し、卒業。

1919年(大正8年)
前年末に日本女子大学校生の妹トシが病気となり母とともに東京で看病する。この滞京中に友人宅で萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。近角常観の求道学舎にも訪れている。また、東京での人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。

1920年(大正9年)
研究生を卒業。関教授からの助教授推薦の話を辞退。10月国柱会に入信。

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※明治後期から大正時代にかけて、法華経を確信して生命の力を謳歌し、そこに国粋主義とアジア主義と世界主義とを加味して台頭した日蓮主義運動ともいうべきものがダイナミックに動いたことがある。

その原点が田中智学と本多日生で、高山樗牛・姉崎正治が智学に感化されて最初に動いた。
それがたちまち井上日召や北一輝や石原莞爾や牧口常三郎の思想の底辺になっていった。
井上日召は一人一殺のテロリズムを唱え、牧口は創価学会を唱える。

 賢治はそのような不穏な空気をのちにもたらした国柱会の入口を、あたかも青年が紅いネオンの奥の秘め事に魅かれるように、行ったり来たりしたのである。
 なぜ、賢治は法華経に熱倒していったのか。


<松岡正剛「千夜千冊」 銀河鉄道の夜>

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1921年(大正10年)、1月23日
家族に無断で上京し鶯谷の国柱会館を訪問。本郷菊坂町に下宿する。学生向けの謄写版制作の職に就きながら、盛んに童話の創作をおこなう[5]。また、国柱会の街頭布教にも参加。夏にトシ発病のため岩手に帰る。11月、稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師となる。翌年11月にトシ病死。

1923年(大正12年)、8月、教え子の就職斡旋の名目で樺太を訪問。この旅行をモチーフとした多くの詩を作る。
1924年(大正13年)、4月
心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。辻潤が同詩集を賞賛。農学校生徒と演劇を上演、一般公開。12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。

1925年(大正14年)、7月
草野心平と書簡を通じた親交を開始。
草野編集の文芸誌『銅鑼』に詩を発表。12月、花巻の北上川で発見したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査(東北帝国大学・早坂一郎教授)に協力。翌年発表された早坂の学術論文にて名前を挙げて感謝の意が記載される。

1926年(大正15年)、3月末
農学校を退職。
羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。12月に上京し、タイピングやエスペラント、オルガンやセロを習う。このとき、フィンランド公使ラムステットの「北アジア」についての講演(日本語)に参加し、ラムステットと会話を交わした。またヒューマニストとして労働農民党の岩手県での有力献金者であった。以降、農業指導に奔走。
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※父政次朗への手紙

今日は午后からタイピストで学校(註YMCA)で友達になったシーナといふ印度人の紹介で東京
国際倶楽部の集会に出て見ました。(中略)
そのうちフヰンランド公使が日本語で講演しました。それが尽く物質文明を拝して、新しい農民の文化を建てるといふ風の話で耳の痛くないのは私一人,、、、、、、、

、、、、、やっぱり著述はエスペラントによるのが一番だとも云ひました。

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1927年(昭和2年)、3月
羅須地人協会の活動に関して警察の聴取を受けたことから協会の活動を停止。

1928年(昭和3年)、6月
農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。この旅行を題材にした詩群『三原三部』『東京』を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群『疾中』などを創作。

1931年(昭和6年)
病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動も行った。
11月3日
手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。

1933年(昭和8年)9月21日
急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯独身であった。死の前日、農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。

この年3月3日に「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している[6]。地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状[2]には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている[7]。

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※田中智学との出会い
宮沢賢治記念館から、、

賢治と仏教の出会いは、10歳の時に大沢温泉で父が主催した仏教会に参加した事から、という説もあります。
幼いころ、伯母のヤギに子守歌のように聞かされていた「正信偈」や「白骨御文章」を仏前で暗唱したり、また、父も仏教会を主催するなど、仏教の素地は家庭環境から作られていましたが、真に仏教に目覚めたのは、中学3年の時に浄土真宗の願教寺で開かれた夏期仏教講習会に参加したころでした。
以来、毎年参加して、住職で仏教学者の島地大等の法話に聞き入りました。

 盛岡中学を卒業した後、病気、入院、将来の進路をめぐる父との対立などですっかりノイローゼ状態になっていた賢治は、島地大等編の「漢和対照妙法蓮華経」と出会い、強い衝撃を受け、のちの一生を決定するほどの契機になったと言われています。

 トシの病気の際、看病のために行った東京で田中智学の講演を聞いたことがきっかけで、田中智学の創設した在家宗教団体、国柱会に入会し、死ぬまで会員を通しました。

日蓮思想に傾倒していった背景には、浄土真宗に深く帰依していた父との対立があったとも言われていますが、国柱会は、賢治と彼の作品の上に大きな影響を与えました。
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※田中 智学、(1861年12月14日 - 1939年11月17日)
は、第二次世界大戦前の日本の宗教家。

多田玄龍・凛子の三男として江戸(日本橋)で生まれ、10歳で日蓮宗の宗門に入り智學と称した。
1872年(明治5年)から田中姓を称している。その後、宗学に疑問を持って還俗し、宗門改革を目指して1880年(明治13年)横浜で蓮華会を設立。4年後の1884年(明治17年)に活動拠点を東京へ移し立正安国会と改称、1914年(大正3年)には諸団体を統合して国柱会を結成した。
日蓮主義運動を展開し、日本国体学を創始、推進し、高山樗牛・姉崎正治らの支持を得た。1923年(大正12年)11月3日、日蓮主義と国体主義による社会運動を行うことを目的として立憲養正會を創設し総裁となった。

※八紘一宇
田中智学は「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に初めて着眼し、「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であり、その後の結果が「八紘一宇」であると、「掩八紘而為宇」から造語した。


やがて、、本人の思いとは別に、、、多くが軍国主義と共存することとなり、、、
八紘一宇という言葉は、今は、軍国主義のスローガンであったと言われている、、、、

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※その後、、、、日本は戦争に突き進むことになる、、、のだ、、


※おそらく、後世の宗門が口を揃えて、、「日蓮を用ひぬるともあしくうやま(敬)はゞ国亡ぶべし」(種々御振舞御書)、、と「あの方」自身が危惧した思いを、、声高に言うに違いない、、、、、

※田中智学が、還俗し宗門改革を目指して蓮華会を設立したのは、22歳の時だ、、、そして立正安国会と称するのは26歳、、、国柱会を結成するのは53歳ではあるが、、、青年期の滾る血を抑えることは難しい、、、
宮沢賢治もまた、、24歳の時に心の高鳴りを押さえられずに、、田中智学を訪ねている、、、


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■師と仰いだ田中智学との決別

<宗教風の恋>
、、、、、、もうそんな宗教風の恋をしてはいけない
 そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこで
 おれたちのやうな初心のものに居られる場処では決してない 


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※国柱会について、、、賢治晩年には、こんな詩がある、、、、

 
< 心相 >
 こころの師とはならんとも、
 こころを師とはなさざれと、
 いましめ古りしさながらに、
 たよりなきこそこゝろなれ。

 はじめは潜む蒼穹に、
 あはれ鵞王の影共ぞと、
 面さへ映えて仰ぎしを、
 いまは酸えしておぞましき、
 澱粉堆とあざわらひ、
 いただきすべる雪雲を、
 腐(くだ)せし馬鈴薯とさげすみぬ。 (1)


※鵞王(がおう);仏の異名、薬師如来のことも言う   


<国柱会>

   「外の面には春日うららに
    ありとあるひびきをなせるを
    灰いろのこの館には
    百の人けはいだになし

    台の上桜はなさき
    行楽の士女さゞめかん
    この館はひえびえとして
    泉石をうち繞りたり (めぐり)

    大居士は眼をいたみ
    はや三月人の見るなく
    智応氏はのどをいたづき
    巾巻きて廊に按ぜり

    崖下にまた笛鳴りて
    東へととゞろき行くは
    北国の春の光を
    百里経て汽車の着きけん」(1)

   

<宗教風の恋>
、、、、、、もうそんな宗教風の恋をしてはいけない
 そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこで
 おれたちのやうな初心のものに居られる場処では決してない 

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※明らかに「国柱会」に失望した賢治の心境を詠っている、、、、。

*はじめは青空の鵞王と仰いでいたのに、今は腐って酸っぱい匂いを発散する腐った馬鈴薯だ、、、、、

*櫻が咲く頃なのに会館は冷え冷えとしてる、、、智学は眼を患い3ヶ月も人前に出てこない、、幹部の山川智応も廊から出てこない、、、、

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*宗教家達の場所は、初心(うぶ)の心を持った者がいられる場所じゃあない、、、

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※遺言で法華経1000部を友人に配るよう支持した賢治であるが、、、、
一時は師と仰いだ智学にも心の内では「決別」していたのだろう、、、、、、、。
「国粋主義」という大きな黒いものの存在に気がついていたのか、、、、、

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(賢治の最期)

 1933年9月19日、花巻は鳥谷ヶ崎神社の祭礼中であった。
 豊沢町の大通りに面した賢治の家の前もみこしや山車(だし)が通った。
 賢治は二階に病で伏せていたが、無理を言って下へ降ろしてもらい
 みこしの行列を眺めた。家族はもう中へ入ったほうがいいといっても、賢治はまだまだといって夜8時過ぎまで下にいた。
 翌日20日賢治の容態が急変し、呼吸が困難になった。花巻病院から医者が駆けつけた。医者の治療で呼吸が楽になった、賢治は机に向かい、短歌を二首、半紙に清書した。

 方十里稗貫(ひえぬき)のみかも
 稲熟れてみ祭三日
     そらはれわたる

 病(いたつき)のゆゑにもくちん
     いのちなり
 みのりに棄てば
     うれしからまし

翌日21日11時半、賢治は「南無妙法蓮華経」と叫び続けながら、血を吐いた。
そして、その血をあえぎながら一人で始末した。
父の政次郎は「何か言っておくことはないか」と賢治に尋ねた。

「お願いがあります。国訳妙法蓮華経を千部作ってください。

そしてそれに、自分の一生の仕事はこの経をあなたに届けるためにあったのですと書いて人々に渡してきださい。」と賢治は頼んだのだ。

それから、少し小康状態となり、二階には母のイチだけ残った。
「お母さん、すまないけど水こ」
イチが水をやると、おいしそうにそれを飲み、それからオキシフルをしみこませた布で手や首や体中を拭き始めた。
イチはそんな息子をしばらくそっとしてあげようと、部屋を出かけた。
賢治の息があまりにしずかなので振り向いた。
「賢さん、賢治さん」と叫んだ。
賢治が手に持っていたオキシフルを含ませた布がポトリと畳に落ちた。
それが最期だった。1933年9月21日午後1時30分。

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<雨ニモマケズのデクノボー原型と賢治の誓願>さんからCOPY
http://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/9009/

※熱心な浄土真宗の父、政次朗が、、彼の墓を日蓮宗の墓地に移すまでには暫らく時間が必要だった。
10年後、、宮澤家の墓と賢治の供養塔を、、岩手県花巻市の日蓮宗の寺院、、身照寺に移す、、。

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賢治の戒名

真金院三不日賢善男子

日蓮大聖人 「生死一大事血脈抄」を参考に
※法華経を保つものは、真金のように焼けず錆びず朽ちず永遠に輝く、、の意

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それにしても、、、鎌倉時代の大きな波動は、、、今も大海原から寄せては返すように伝播している、、、。



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書きかけです----------

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