長崎の龍馬「亀山社中」「花月」「グラバー邸」「出島」

九州バス旅行の最終日は、、、長崎、、、
前日(4/21)にホテルに到着したが、、生憎の暴風雨、、それでも、明日は最終日でもある、、夜の船大工町、丸山へ、、、TAXの運転手さんに丸山の「花月」前で写真を撮りたいので、、行ってくれ、、と頼む、、ついでにシャッター押してくれ、、ついでに、、イイ店、教えて、、と要求が多い、、

■長崎出島
そもそも、、長崎の街中をTAXや観光バスで通っても、、出島が一体何処から、、何処まで、、なんて判らない、、、
ビルが林立しているし、、海に突き出たイメージの、あの場所は見当たらない、、それも、その筈、、明治37年に、、埋め立ててしまったからだ、、、そこで、2010年から出島復元事業が始った、、、

平成12年には「へトル部屋」「料理部屋」「一番船船頭部屋」「一番蔵」「二番蔵」をはじめとした5棟などの一部が完成し、2018年までには、、主要な建物が、、中島川沿いに完成する。

まあ、、できれば、、海岸沿いに造って欲しかった、、、。



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<長崎市のサイト「蘇る出島」より>

江戸時代、わが国に来航したオランダ船は、1621年から1847年までの227年間に延べ700隻以上にのぼります。オランダ船が長崎港に入港する時期は、季節風の関係から旧暦の6月、7月が最も多く、バタビア(現在のジャカルタ)を出港し、バンカ海峡、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきました。
 オランダ船が出島沖に碇をおろすと、船の出航地や乗組員の人数などの取り調べや積荷の検査、そして2、3日後から荷役作業が始まり、この作業が終わると入札が行われていました。
 江戸時代の初期にオランダから輸入していた主なものは、ベンガルやトンキン産の生糸、オランダに輸出していた主な品は銀でした。江戸時代の中期以降は、羅紗(らしゃ)、ビロード、胡椒(こしょう)、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入し、銅、樟脳(しょうのう)、陶磁器、漆(うるし)製品などが輸出されていました。
<長崎市のサイト「蘇る出島」より>
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■時代は大きく変わっておる。そなたの国だけではない、この国も変わる、変わらざるを得まい、、、そなたが一番承知であろう。


※長崎出島に、丸山遊女の出入りが許可されたのは、正保2年(1645)からで、、、以来、、数百年、、不十分とはいえ、、遊女達は、阿蘭陀語とマレー語程度は話せたと言う、、、。
やがて、、、恋も生まれたが、、異国人は、まだ出島から出ることはできなかった、、。

「丸山の恋は一万三千里」
と川柳が歌われた、、、、オランダまでの距離だ、、。

※「明日出向予定の阿蘭陀船ザイヘル号の下級商務官ヨハン、コネリウスが失踪いたしました」
奉行所には、まだ、、、伝えられてはいない、、

「明日の出航が止められており、、商館長ドンケルも自力で探してはいますが、、内々の探索の相談がきております、、出島内の探索はもとより、、沖合の船舶も探しましたが、、見つかりません」

「その者に、、長崎に残る理由は見当たらぬか」
「そうでございますね、、、丸山の遊女の”おきね”と懇ろになっていたとか、、聞いてはおります」

「ただ、、”おきね”は、、落籍しました、、茂木の漁師総太郎と申す者が見受けしたそうです、、
なんでも、、漁師のかたわら、、抜け荷にかかわる水夫で金子を得たらしいんで、、、」

「遊女との駆け落ちでなければ、、、事件かもしれん、、まずは、、ヨハンの宿坊へまいろう、、」
島の一角には動物を飼育する場所がある、、、
牛、豚、鳥、、、時に、、献上物としての、、像、らくだ、虎、馬などの囲い場と小屋があった、、、。
高官達はこの場所には、、こない、、

「海に近いの、、」、、、籐之助の感は当たった、、、
豚小屋の横穴から水面に、、ロープが張ってある、、、ここから脱出したのだ、、

コネリウスの失踪と、、”おきね”の見受け、、、やがて、、、これが、、周到に仕組まれた偽装であることが判る、、

茂木の港から更に奥まった大田尾の港の岩場で、、コネリウスとおきねを発見する、、
籐之助とコネリウスが対峙する、、銃を構えるコネリウス、、両刀を預けて近寄る籐之助、、

「コネリウス、、そなたのことを思うてのことだ、、ここは大人しく船に戻らぬか、時代は大きく変わっておる。そなたの国だけではない、この国も変わる、変わらざるを得まい、、、そなたが一番承知であろう。
そのとき、、必ずやそなたと”おきね”は再開できよう。今無理をするか、その時を待つか」

コネリウスがどこまで理解するか判らなかった、、間を詰めた、、

「トマレ、クルナ」
歳は三十前後か。いや、見かけより若いかも知れぬ。と籐之助は、思った、、。

「コネリウスどうするね」

おきねが哀願するように問う、、、
「オキネサン、フネニハカエラン」
コリウスの眼は、
「邪魔するものは、撃ち殺してでも、おきねと異国へ逃れる」
と告げていた。

「そなたと相戦う理由は、ないのだぞ」

籐之助が応じたとき、、
コリウスの引き金に力が入った、、、

ずーん、、という銃声、、、とっさに横手に体を投げ出す籐之助の手から小鉈が飛んだ、、
、、、
血しぶきが舞い散り、、コリウスの体から一気に力が抜けたか、、尻もちをつくように岩場に転がった、、
「許せ、これしか、、、」

”おきね”は怒りとも、憎しみとも、哀しみともつかぬ眼差しだった、、

夢を掴みかけた女が最後に奈落に落とされた絶望の目だった、、、。
おきねは、迷いも見せず、着物裾を風に翻して、海へ飛んだ

「コリウス!コリウス!」
おきねの悲鳴と姿が、断崖にぶつかり砕けた波飛沫の中に消えていった、、、。

----佐伯泰男  攘夷 出島からの失踪者 アレンジ---

※こんな、、悲しい出島の恋があったかも知れない、、、、、。



■丸山の料亭「花月」

昔は一見の客は入れなかったそうですが、今は予約すれば入れます、、と運転手さん、、

※花月の創業は寛永19年(1642)、江戸の吉原、京都の島原、長崎の丸山は、、三大遊郭として知られ、、当時の外国との折衝や、、貿易商を含む国際的社交場になっていたらしい、、。
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<海外貿易商との商談が行われた>

龍馬は、長崎で、薩摩藩の御用達、、豪商小曾根乾堂の息子の英四朗と知りあう、、薩摩藩の小松帯刀の紹介と言われるが、、勝海舟の紹介とも言われる、、、
勝海舟と英四朗が海軍伝習所の同窓生であったと言われている、、、

小曾根家は、乾堂の時代に、越前松前藩の松平春嶽の財政援助を得て、、蔵屋敷と大規模な積荷の埠頭を建設し、海外貿易の拠点として、松前藩からの物産を輸出した、、、。

当時、、越前藩は、赤字財政であったが、、小曾根家の貿易を通じて、文久元年には、貿易額75万弗(3百万両)となり、、藩の財政は極端に豊かになったという、、。


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<花月の入り口付近、思ったより地味でした>

■小曾根英四朗
、、、は亀山社中のスポンサーでもある。そして、バックには、、薩摩藩、、松前藩、、、、。
、、、龍馬の人脈は、、、広がってゆく、、、。

小曾根家は、志士達のアジトのように利用できた、、
龍馬は妻のお龍を、小曾根邸に一時預けてもいる、、

英四朗は、、海援隊の会計官もやり、、衝突事件の「いろは丸」にも同乗していた、、
維新にかける情熱は生半可ではなかった、、、そのため、、龍馬と共に夢は消え、、明治は英四朗が見た夢とは違っていた、、晩年は、丸山遊郭で酒びたり、、明治23年(1890)51歳 没す、、、。

※長崎で、、龍馬は世界を夢見る、、土佐藩の力を借りた「海援隊」となっても、、、行く先は世界、、だと、、、。
確かに、若いころに浦賀沖に見た、、黒船は鮮烈だった、、ジョン万次郎の話も夢のようだった、、

「やるぜよ、、国をまもるにゃ航海術を身に付けさせにゃあいかん、、黒船も日本で造るがじゃき、、」
「異国語を学ぶがじゃ、、」
龍馬亡きあとではあるが、、、海援隊は「和英通韻伊呂波便覧」という和英辞典を出版している、、。

異国情緒溢れる長崎は、、龍馬の夢を膨らませた、、、。

後世に作られたと思われるが、、、、有名な大政奉還後の龍馬の語録がある、、。

「、、龍馬、、一日案を携えて西郷に会い、その所見を叩く、席に小松、大久保あり。 西郷案を手にして頷き、之を大久保に与う。 龍馬傍らにあり、柱によりて膝を組み、腕拱いて晏如たり。

西郷、龍馬に、案中君を擬するの職なし、理由如何と問う。 龍馬答えて曰く ”僕は官職を厭う”、、、
西郷曰く、然らば、官職を外にして、何をか為すと、、
龍馬空嘯いて曰く ”左様さ、世界の海援隊でもやらんかな”、、西郷重ねて言うに能わざりき、、。」

陸奥宗光が語るに、、「維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり、、、、」
と伝えているので、、、龍馬は、海外通商を目指していた、、。

この意思は、、岩崎弥太郎の三菱に引き継がれたと言われる、、、、。

※花月には、社中の連中が入り浸った、、
毎月3日に薩摩藩から給料をもらえたからだ、、、全員一律三両二分、、、当時は月一両が一般の生活費らしいので、、、悪くはない、、、

龍馬は、花月で「おもと」という鼓と親密になっている、、当時のことである、、厳しいことは言わない、、
長崎での彼女であろう、、、。

■大浦慶
長崎の女豪商「大浦慶」にも、、、社中は世話になっている、、特に陸奥源次郎(宗光)は可愛がられていた、、、

長崎油商人だった慶の実家は、外国人相手の色街、丸山に灯火の燃料などを納めて裕福であった、、
しかし、婚約者を病気で亡くし、、婿養子とはうまくいかず、、離縁している、、
やがて、外国人相手に日本茶を売る、、、大浦海岸に商館を持つ、、イギリス商人のオールトが、、巨額の取引を持ち込んだ、、慶は九州一円から茶を集めて、、財をなし、信用を勝ち得た、、、

龍馬は、陸奥が大浦慶と、、いい仲であることから、、よく金を無心したらしい、、
「たのむ、、少しばかり融通してくれんか、、」
「いかほどですか」
「五百両ほど頼む、、」
「そのような大金は持ち合わせいたしません」
「お前に貸せといわんちゃ、、大浦のお慶さんに頼んでほしいんじゃ、、」
「こまりますなあ」
、、、しかし、、陸奥は工面したらしい、、、

龍馬は言う、、、
「社中の中で、、両刀取り上げても食いはぐれのないのは、、俺と源次郎だけじゃ、、」

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※あん人は、、「ののんか(可愛い)顔しちょるが、大仏がごと、太か料簡者ね」、、とお慶は言われていたらしい、、

薩摩の松方(正義;後に総理大臣)、、肥前佐賀の大隈(重信;後に総理大臣)、、、までが、、三助になって、、お慶の背中を流す骨抜きになっているというではないか、、、そのお慶が「坂本様と寝てみたいと、、」と、、言う、、「だめなら、、あなたでも、、」、、陸奥は狼狽した、、、。

「それで、、お慶からの提案なのですが、、」と陸奥が龍馬に報告する、、、大浦海岸の英国商人が風帆船を1万二千両で売りに出すという、、、
「安い、、」と龍馬は思ったし、、欲しいと思った、。

「その帆船を、亀山社中に買ってやる、、と言うんです」、、、
「お慶は、、社中を乗っ取る気いか?、、」、、、まあ、ええ、、、だが船は欲しい、、、。

龍馬は薩摩藩の、、小松帯刀に会う、、
「一私人から金を頂戴するのも、、いかがか、、そこで、借用することとする、、そこで、、その保証人に薩摩藩がなってくださらぬか、、」というのである、、、。

「よかろう、、」薩摩藩からは、あっさりと了解された。

社中が買った船の名は「大極丸」と名付けられた、、、、、、。

お慶は言う、、「あとは、長州ば侍と寝てみたい、、」、、、「薩長土肥がそろえば、、天下がとれるばい!」、、とおもしろそうに笑った、、、<龍馬がゆく>。

※司馬遼太郎さんの、創作だろうが、、この時代も、、時勢を真っ先に読んでいたのは商人であったろう、、。

※----wikipedia----
明治政府の上位官職を「薩長土肥」で一時期ほぼ独占する状態となり、藩閥政治と揶揄された。
しかし実際には、新政府発足以来、この4藩出身者の中で熾烈な権力闘争・路線闘争が展開されることによって明治政府が運営されていた。
薩長出身者は政府・軍部の中核を占めたが、土肥出身者は一部は明治政府に残りつつも一部は薩長政府を攻撃するという展開となった。
明治の国政は、良くも悪くも、この「薩長土肥」主導による政治であったと言える。
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■亀山社中

出島川を遡り、、眼鏡橋から上流、、坂道を上ったあたり、、当時は「瓶山焼」という、とっくりを作っていた地域があった、、やがて「亀山焼」という窯を持った、、、この陶工達の住まいを、、小曾根英四朗が買い取っていた。
龍馬達は、この住まいを使った、、、。
現在は、亀山社中記念館として開放している、、

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開国派の勝海舟が元治元年10月、、軍艦奉行を罷免され、、「神戸海軍操練所」が閉鎖された、、、。
操練所は脱藩浪人の集まりであった、、龍馬達は行き場を失ってしまったのだ、、。
龍馬は、海舟の紹介で、薩摩藩の西郷に身柄を預けられることになる、、薩摩藩は、彼らの経験を生かすことを考え、、薩摩藩の出資により結社を設立することになった、、、。

慶応元年(1865)5月頃「亀山社中」が設立された、、、。
※メンバーは、操練所時代の仲間だ、、

近藤長次郎(まんじゅうや長次郎;上杉宗次郎)、
寺内馬之助(寺内新右門)
長岡謙吉(今井純正)
高松太郎(多賀松太郎;小野淳輔、坂本直)
沢村惣之丞(関雄之助;愛進)
菅野覚兵衛(山本謙吉;千屋寅之助)
陸奥宗光(伊達小次郎;陸奥源次郎;陸奥陽之助)
望月亀弥太
中島信行
、、、

龍馬にとって長崎は、、世界の窓であった、、この情報都市には、上海、香港を経由して、、イギリス、オランダ、フランス、アメリカの艦船が集まり、、、国際的なニュースを得ることができる、、。

外国商人には、イギリスのグラバー、プロシャのチョルチー、オランダのホットマンらがおり、、彼らは、、蒸気船から鉄砲、弾丸、、密航まで手配してくれた、、、。


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<亀山社中記念館>

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<亀山社中付近から見る長崎港>

また、、長崎は地理的には、長州と薩摩の中間地点でもあった、、、。

その頃、、、薩長の間を、、、必死に動いていた土佐脱藩浪士がいた、、、。
龍馬とは、、やや志を異にするが、、その純粋な思いは、、強い、、
長州藩に籍を置き、、倒幕を進める、、中岡慎太郎である、、、、。


※中岡の脱藩は、、尊攘派の転落にある
京都で会津藩と公武合体派の薩摩藩が結託して、急進派公家と長州藩を追い落としたことから、様子は変わった、、
急進公家の三条らは京都を追われ、七卿落となって、長州に逃れる、、

中央の動きに、土佐では山内容堂が勤王党の弾圧に入る、、、文久3年9月5日、中岡は長州に向かうが、事実上の脱藩となった。戻ろうとしたが9月21日、高知城下では、戒厳令がひかれ、武市瑞山ら勤王党が検挙投獄され、中岡も逮捕状が出ていたのである、、、。
その後、武市が切腹に至り、土佐勤王党は壊滅する、、、。

中岡は草莽の士となった、、。

同じ時、、神戸操練所廃止後に行き場を失い、勝の紹介で薩摩に世話になる龍馬とは大きく違い、長州の中で自力で尊王討幕の道を歩むことになった、、、

この二人が、、出会うことで、、事態は大きく転回してゆくのだ、、、。

慶応元年5月5日、、、下関で中岡と共に動いていた土方(久元)は、思いもかけぬ人物に出会う、、、、
坂本龍馬だ、、、龍馬がそこに現れたのだ、、、中岡の考える薩長連合の策を龍馬に話すと、、、
龍馬は手を打って喜んだ、、、

※拙者関連Blog
北川村の中岡慎太郎 & 龍馬は薩長同盟で22億円成約 
http://tokatu1.at.webry.info/201101/article_2.html


■グラバー亭

英国スコットランド、アバデーン生まれのグラバーは、安政5年(1858)アバディーンの羊毛会社、クロスビーズ・オブ・グランドホームという会社の一社員として父と弟と共に上海に渡り、、そこで、極東最大の貿易商社ジャーディン・マゼソン商会に入社する、、、安政6年弟と共に来日、、21歳、、。

日本は、安政5年に締結した英、米、露、仏四か国との仮条約に従い、、神奈川、函館、長崎を開港している。
長崎は開港以前から、幕府直轄の「出島」という外国人居留地を持っていた、、

出島は、、役人、特定商人、丸山遊女らが出入りを許可されていた、、、

グラバーも当初は、出島に住居を構えたが、、万延元年(1860)大浦川河口が解放されたことで、大浦海岸のメインストリート沿いにマゼソン商会が開設し、、支店長のマッケンジーが、上海に転勤するとグラバーは日本支店長に就任した、、、マッケンジー所有の山腹の土地を譲り受け、、コロニアル風のグラバー邸を建てた、、、。

翌文久2年には、、マゼソン商会から独立しグラバー商会を設立する、、
グラバー商会の当初の仕事は、、居留地の外国人向け不動産業であった、、、

文久3年(1863)長州の伊藤博文ら4人を英国に留学を支援する、、

慶応元年には、薩摩の五代友厚ら14人を英国留学させている、、、

※留学ではないが、、海援隊の中にも渡航者はいる、、、
長岡謙吉、、「我三港及び上海等を歴遊す」と手紙に書いている、、
沢村惣之丞、、上海渡航
関義臣、、龍馬の了解で、グラバーの援助で英国密航予定がシンガポールで難破、上海経由で戻る
龍馬が、、慶応2年春に上海に渡航したとの説がある、、、史料は無い、、、

慶応元年(1865)薩摩の小松帯刀(たてわき)の紹介で、、龍馬はグラバーと会い、、亀山社中とグラバー商会による長州への銃の商談を成立させる、、。

また、グラバーは、日本の輸入蒸気船が、中古であったことから、、小菅にドックを建設、、修理にあたった。
やがて、、これが、、長崎の三菱長崎造船j所に繋がったといえる、、。


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<グラバー邸:クリックで写真が拡大します>
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<こちらもクリックして写真を拡大して下さい>
<グラバー邸から長崎の港が一望、、三菱造船所が見える>

※明治2年 戊辰戦争終結、、、大量に武器輸入していたグラバーは在庫を抱えてしまい、、倒産する、、。
グラバーや外国商人は、、戦乱の長期化を、、予測していた、、、が、、外した、、。
幕府があっさりと大政奉還してしまったからだ、、。

その後、、明治14年に岩崎弥太郎に迎えられ、、三菱財閥のブレーンとして働くことになった、、、

ビール醸造に着目し、、麒麟のマークのラガービールで明治40年にキリン麦酒株式会社設立まで、運営を取り仕切った、、

明治44年(1911)73歳永眠 長崎市 坂本国際墓地、妻ツル、息子;倉場富三郎夫妻

※旧グラバー邸
貿易商であり、グラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築。1863年(文久3年)の建築。裏手には馬小屋や貯蔵庫なども残っている。三菱重工業 長崎造船所を見下ろす位置にあったため1939年(昭和14年)に戦艦武蔵の建造を秘匿する目的で買収され所有が三菱重工業へと移った。1957年(昭和32年)には同造船所の創業100周年を記念して長崎市へ寄贈された。1961年(昭和36年)6月7日、主屋・付属屋が国の重要文化財に指定。

※倉場富三郎
  幕末から明治維新にかけて活躍したイギリス人貿易商トーマス・グラバーと日本人女性(ツル)との間に生まれた[2]。長男[3]として1871年1月28日(明治3年12月8日)、長崎に生まれる。

長崎の加伯利英和学校を経て学習院を中退、後にアメリカのペンシルベニア大学で生物学を学び、帰国後、父の興したグラバー商会から暖簾分けしたホーム・リンガー商会に入社、また長崎汽船漁業会社を興して日本に初めてトロール漁業を導入するなど第二次世界大戦前まで長崎の実業界にて活躍する。妻も日英混血の中野ワカ。また、長崎魚市場から収集した水産動物の精巧な図譜『日本西部及び南部魚類図譜』いわゆる『グラバー図譜』を編纂した。

第二次世界大戦開始後、イギリス人と日本人の混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられた。武蔵建造の機密保持を理由にグラバー邸を退去させられたり、ワカに先立たれるなど不幸な晩年を送り、更に原爆投下により故郷が壊滅した事が追い打ちとなり、終戦直後の1945年8月26日に長崎の自宅で自殺した。

遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻とともに埋葬されている。両親の墓とは隣同士である。死に先立って『日本西部及び南部魚類図譜』の遺贈先を理解者の渋沢敬三に遺言状で指定。その後渋沢は長崎大学水産学部に寄贈した。
         

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ところで、、、行くか戻るか 思案橋、、
超えて、、こちらは船大工町、、

もはや、、カラオケ毎日、、というHさんに付き合って
カラオケスナックへ、、、すっかりイイ気分で外に出れば
まだ、、暴風雨、、、

長崎は、今日も雨だったのです、、、。

「おーと、、運転手さん、、福山雅治さんちの実家の前で、、ちょっと、、止めてくれないか、、」

それほど遅くない時間に、、酔っ払い達は、、無事に三流ホテルに着いた、、。

、---------書きかけです----------



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