「さいたま」に渡来した玄奘三蔵法師 その④ 龍樹の中論 火と薪、我(=アートマン)、空、ゼロ、

玄奘三蔵法師の訳した「唯識三十頌」が、小生には難しすぎるので、、、

しばし後回しにして、、
「龍樹 空の論理と菩薩の道」瓜生津隆真著から、、

大乗教の2大派閥の一方である、、、「中観派」の代表である龍樹菩薩の「空」に関する、、つまみ食いをする、、。
ことによったら、、「バチアタリモノが~」、、と、何処かの坊さんに怒られるかも知れないが、、そこは、素人の強み、、勝手に釈んで、、勝手に罰あたり者になろう、、、。

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「中論」は、龍樹(ナーガールジュナ)の主著と言われている、、。
「中論」という書名は、、「鳩摩羅什(くまらじゅう、くもらじゅう、サンスクリット:Kumārajīva, कुमारजीव)が漢訳したもので、サンスクリットの注訳書の「プラサンナバダー」ではMadhyamaka-karikaとあり「中の頌」となる、、、しかし龍樹の原本は存在しないという、、、。

※当時の状況としては、部派仏教(大乗派からは、小乗教)との論戦が背景にあるので、、、
僧を中心とする出家のアビダルマ仏教を否定する論法で、、釈迦の真意は、、大乗であると、、展開する、、、。


羅什の訳とプラサンナバダーの訳を、、対比しておくと、、、

中 論(27品)<--->プラサンナバダー(30偈)
1;観因縁品     原因と条件の考察
2;観去来品     己去処と未己処の考察
3;観六情品     眼等の感官の考察
4;観五蔭品     蘊(うん:心身の構成要素)の考察
5;観六種品     界(世界の構成要素)の考察
6;観染染者品    染(貪り)と染者(貪る人間)の考察
、、、、、略、、、
27;観邪見品 <--->30偈;見解の考察

興味深いけど、、ここでは、膨大すぎて、、体力が続かないので、、、
なんとなく、、易しそうな、、

10;観燃可燃品<-->16偈;火と薪の考察
18;観法品<----->12偈;我の考察

、、に関連するページをつまみ食いする、、、、。

もし、、「薪が火である」と言ったら、、行為主体と行為が同一になってしまう、、、
もし、、「火が薪とは異なってい別である」と言うなら、薪を離れて火は有るということになる。
もし、、「火と薪とが異なって別であるなら、火は常に燃えている状態であり、燃える原因をもたないものとなる」
、、、、、
もし、、「薪に依存して火が有り、火に依存して薪が有るのなら、どちらが先に成立していて、それに依存して火が、あるいは薪があるのか」
、、、、

「火は薪では無い。また、火は薪とは別の処にあるのではない。火は薪を所有するものではない。火の中に薪があるのではない。(14)

「火と薪」によって、我(アートマン)と五取蘊(執着の対象となる五蘊)との関係についての次第が、瓶や布などそともに、あますところなく説明された。

我(アートマン)について、本体を持っていると説き、もろもろの存在(もの)について互いに異なって別であると説く人がいる。私はそれらの人々を、教えの意味に精通しているものとは考えない。

※薪が燃えているという現象から、、火が燃えている、、薪が燃えている、、火が有る、、薪が有る、、とか考え火と薪との間に、、同一であるとか、別異であるとか、、という思考に対して、、、「空」の論理は、、、これを批判する、、、。

龍樹は、、、自我の本体を想定し、五蘊(五取蘊)の存在に固有の実在論的な考え方では、仏陀の教えを理解することはできない。、、、とする主張を展開した。

※燃える、、、気化した物質が摩擦熱などにより、酸素と化合して、、酸化する、、、
このとき発熱するが、、高温だと赤い炎に見える、、、、これは、「気化した物質」「摩擦熱」「酸素」などの「もの」の縁起によって起こる現象とすれば、、、、アビダルマ仏教になるが、、、龍樹の「空」の論理は、、それだけでは、、ないよ、、と、、これを批判する、、、のか、、、。



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■アートマン(我)の考察=中論 観法品第十八

「我」、、とは「アートマン」の訳、、自我、自己の本質、本性、個我、自己を意味します。
「法」、、とは「ダルマ」の訳で、、存在、もの、事物、を意味していますが、、中論 観法品第十八では、、五蘊の法(ごうんのほう)のことです。

五蘊:色、受、想、行、識のことです。

色;物質
受;感受
想;構想
行;心作用
識;認識

※つまり、、空気は眼では見えないけれど、知識や想や感受や心などの他の「蘊」なら見える、、ということですね、、、、、。


これらが、自己を成り立たせている、、、アビダルマ仏教の考えである。
中論」の我の考察では、、、

もし、、「我」が五蘊そのものであれば、「我」は「生」と「滅」とを持つことになる。
もし、、「我」が蘊から異なるものであれば、「我」は五蘊の特相を持たないことになる。

※離蘊(りおん)のアートマンと即蘊(そくおん)のアートマン:
人我は離蘊(りおん)のアートマンでもなく、、即蘊(そくおん)のアートマンでもない、、「非即非離蘊(ひそくひりおん)」、、、である。

※「空即是色」、、みたいな、、、。

※大乗派が、、生命の永遠性や輪廻(りんね)思想を継続しようとすれば、、アートマンは、、有るといったら間違いで、、、無いと言ったら間違いだ、、、と、、。


※ちょと!、、ちょっと!、、わかんないよ~、、、。

-----wiki------

仏教における空(くう、梵: śūnya、巴: suñña)とは、固定的実体もしくは「我」のないことや、実体性を欠いていることを意味する。空は時代や学派によっていくつかの概念にまとめられるが、その根本的な部分ではほぼ変わらず、いずれも「縁起を成立せしめるための基礎状態」を指している。

ただし、下述するように、この概念は初期仏教以来用いられてきたものではあるものの、とりわけ大乗仏教初期の『般若経』やナーガールジュナ(龍樹)の『中論』及びその後継である中観派によって、特に強調・称揚・発展されてきた概念であり、そこに端を発する中国仏教宗派の三論宗を「空宗」と別称する[1]ことからも分かるように、一般的にはその文脈との関連で用いられることが多い。

原語はサンスクリットの形容詞「シューニャ」、名詞形は「シューニャター」(Śūnyatā) でしばしば「空性」と漢訳される[2]。

シューニャはインドの数学における「 0 (ゼロ)」の名称でもある。

※「空」≒「ゼロ」、、では無いと思うが、、「空」は難解だが、、ゼロ」は、日常的で親しみやすい、、

最近、、
映画「永遠のゼロ」は、零戦という戦闘機と愛の物語とか、、

※零戦は、皇紀2600年(昭和15年)採用の戦闘機だからです。下2けたが00だから、、
なので、、あまり意味は無い、、、映画の題名の方が永遠」を付けて意味が深い、、。

※そういえば、、最近、あの「ホリエモン」が、、「ゼロ―--なにもない自分に小さなイチを足していく」 、、なんていう、、本を出したな、、、。

作者はゼロを深く考えてのことではない、、とは思うが、、、スタートとか可能性とか白紙とか、、そんな意味だろう、、。


----書きかけです-------














        

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