じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑤  長谷 (hase) 

文永八年(1271)9月12日、、真夜中、、
「あの方」は、、馬に乗せられ、、護送の兵士に囲まれて、、小町大路(komachiooji)を南下、、やがて右折して
西へ向かった、、、
鶴岡八幡宮からまっすぐに海岸に向かって伸びる表参道「若宮大路」との、、交差点、、下馬四角(、、と思われる)に差し掛かった時のことです、、。
若宮大路は道幅30mの堂々たるメインストリートであるが、、これは神事に使われるために造られたものです、、
当時は、、一般の民家や武家屋敷は、、若宮大路に向けて門を作ってはならない、、、神聖な道なのだ、、、

「あの方」は、、ここで一行を停止させると、、馬から降りた。
兵士達は戸惑うが、、「罪人である、静かにせよ」、、、とは言えない、、。

「、、各々さわがせ給うな。べちのことは無し。八幡大菩薩に最後に申すべきことあり。、、」

そして八幡宮の社殿に向かって声高に語りかけたのです。

「いかに八幡大菩薩はまことの神か。、、、日蓮今夜、首切られて霊然浄土にまいりてあらん時は、まづ天照大神・正八幡こそ、起請を用いぬ神にて候ひけれと、さしきりて教主釈尊に申し候はんずるぞ。」

※八幡大菩薩は、法華経の行者を守護すると釈尊に誓約したではないか、それなのに、なぜその約束を守らないのか、、私が今夜命を奪われて霊前浄土にいったときは、、釈尊にそのことを申し上げるぞ、、」

「あの方」は八幡神を叱責した、、のです。

当時のことである、、八幡宮は、源氏の氏神、、兵士らは、、深夜の大音声に、、身の毛もよだつ思いであった。

再び馬上の人となった「あの方」は、、更に西へと向かう、、

方向としては、、江ノ電に添っている、、やがて「長谷(hase)」に出る、、、

※妄想が頭をもたげる、、、
失礼ながら、、もしや、、「あの方」は、、、一世一代の「芝居」を打ったのか?、、と、、

※「私は正法に照らして間違ってはいない、、私を闇に消そうとする権力者達よ、、教主釈尊は見ておるぞ、、必ず後悔するであろう、、、」、、今回の策謀を巡らした者達に、メッセージを伝えたのだ。兵士達も、、佐渡流罪の沙汰があるのに、、深夜に瀧の口刑場に向かうについて、多少の疑問と不審を仲間うちで噂していたに違いない、、、「あの方」は空かさず、その不条理を指摘したのだ、、、。

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※長谷駅から徒歩数分で鎌倉の大仏( 高徳院)に到着、、

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<御存じ高徳院の阿弥陀如来>

鎌倉の大仏( 高徳院1238,1252  )
大仏(1238)当初は木造であったが(1247)台風で倒壊、、(1252)に寄進によって現在の青銅再開眼となった。当時は大仏殿内にあったが、、1152台風で倒壊、、復興するも、こんどは、1498に”津波”で倒壊、、現在の露座となった。
※1498年の津波は記憶すべきであろう、、同レベルの津波が発生した場合には、、鎌倉大仏まで津波の被害があるということだ。
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駅と大仏の中間程を左に入ると長谷寺がある、、、。

海光山慈照院長谷寺(736 )

伝承によれば、、天平8年(736)に本尊が漂着したときを開創とする。
京都長谷寺の尊像と同じクスノキから彫られたという、日本最大の木造十一面観世音菩薩が鎮座する、、、黄金の美しい像だ、、寺全体も美しい、、寺内にレストラン(海光庵)もある、、
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<窓から由比が浜が見える>
http://www.hasedera.jp/restaurant/
坊さん姿のウエイターがカレーライスを運んでくれる。
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境内は、、よく手入れされていて庭園が美しい、、、

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長谷には、、
光則寺というお寺がある、、、ここは、、

宿屋 光則(やどや みつのり、生没年不詳)

鎌倉時代中期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。父は宿屋行時、通称は左衛門尉・左衛門入道。法名は最信。

『吾妻鏡』では、弘長3年11月22日(1263年12月24日)、北条時頼の臨終の際、最後の看病を許された得宗被官7人の中の一人に挙げられる。この時には既に出家していた。

光則は日蓮との関わりが深く、文応元年7月16日(1260年8月24日)、日蓮が「立正安国論」を時頼に提出した際、寺社奉行として日蓮の手から時頼に渡す取次ぎを担当している。

また、日蓮の書状には文永5年8月21日(1268年9月29日)、10月11日 (1268年11月16日)にも北条時宗への取次ぎを依頼する書状を送るなど、宿屋入道の名前で度々登場している。同8年(1271年)、日蓮が捕縛されると、「日朗、日真、四条頼基の身柄を預かり、自身の屋敷の裏山にある土牢に幽閉した」

日蓮との関わりのなかで光則はその思想に感化され、日蓮が助命されると深く彼に帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として[光則寺」を建立した。
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また、、駅の近くに「四条金吾邸跡」と言われる「収玄寺」がある、、
当初、、収玄庵としていたが、、その後四条金吾の法名の、収玄院日頼から寺号(1923)になる
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<東郷平八郎元帥が揮毫したという>

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※光則寺と収玄寺は近所であった、、。
このことから、、鎌倉幕府の寺社奉行であった宿屋 光則と、、名越北条の武士である四条金吾が、近所付き合いをしていたに違いないことを推測する、、危険な状況は、、概ね掌握していたはずだが、、、、ここは、、別に調べる。

※千葉氏は、、長谷に館を築いていた、、、

千葉氏の鎌倉における館は、成胤の代には甘縄にあったことがわかる。
(甘縄は現在の鎌倉市長谷一帯)で、長谷寺や甘縄神明宮のある高台からは由比ヶ浜や低地にある街並みが見渡せ、居館があったと思しき台地下は風をしのげて、稲瀬川が堀代わりになっていたのであろう。安達盛長の邸宅も、甘縄神明宮のある高台のすぐ下にあった。
「古城の丘にたちて」より
http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/1_2.htm

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、、、「長谷(hese)」の御霊神社の前にきた「あの方」は、、熊王という少年に四条頼基(金吾)を呼ぶように知らせに走らせる、、、事態を知った頼基は、、兄弟三人と共に、、裸足で駆け付け、、、馬の轡を取らしてくれるよう願い出た、、兵士らは、その熱意に打たれて、それを許した、、。

※熊王という少年;別に調査する
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<歌舞伎 日蓮滝の口場面と-熊王>

一行は、、長谷から江の島の瀧の口刑場に向かうが、、、およそ、、一時間程度と思われる。
屈強な武士であった四条金吾は、、師が直面する事態に、、耐えられずに泣いた、、、。

※「あの方」は、後に四条頼基(金吾)に手紙を書いている、、

「、、返す返す、今に忘れぬことは頸切られんとせし時、殿はともして馬の口に付きてなきかなしみ給ひしをば、いかなる世にか忘れなん。設ひ殿の罪深くして地獄に入り給わば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへ給ふにも、用ひまいらせ候べからず。同じく地獄なるべし。(崇俊天皇御書)

※何回も思い出しますが、私が首を切られようとした時、馬の手綱をとって泣悲しんでくれた時のことを決して忘れません。もし貴殿が罪業深くして地獄にいくことになってしまったら、私は釈迦仏から、どんなに仏になれと言われても、それを断って貴方と一緒に地獄に行くでしょう、、。

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(崇俊天皇御書)

※二代執権北条義時の孫である江間光時の臣下であった金吾に対して、、種々諭している手紙で、、純真であるが直情的であった四条金吾に対して、、、行動を慎重にするよう、、様々なことを事こまやかに諭している、、、、日頃の生活態度などや、、狙われているので、、今は、言葉にも注意しなさいなど、、

短気のため身を滅ぼした崇峻天皇の故事も例に引かれているので、「崇峻天皇御書」と名づけられている

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-------書きかけです--------------








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