六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー③

■伊与房(日頂)は、文永10年4月に佐渡に到着した、、。

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文永8年(1271)11月(新暦1272.1)に、、あの方が極寒の佐渡の塚原に流配されてから半年が過ぎ、、翌年春、、4月に配所は塚原から一の谷に移ります、、。

富木殿の養子となっていた伊与房(日頂)は、富木殿の従者とともに佐渡に向かった、、
日頂の佐渡行きは「土木殿御返事」 文永10年7月の手紙の内容から知ることができる、、。
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鵞目二貫給候い畢んぬ。太田殿と其れと二人の御心喜び候。伊与房は機量物にて候ぞ。今年留め候い畢んぬ。御勘気ゆりぬ事、御歎き候べからず候。当世・日本国、子細之れ有る可き由之を存ず。定めて勘文の如く候べきか。設い日蓮死生不定為りと雖も、妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か。
 伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす。但し定慧は存生に之を弘め、円戒は死後に之を顕す。事法為る故に一重大難之れ有るか。仏滅後二千二百二十余年。今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず。当時果報を論ずれば、恐らくは伝教・天台にも超え、竜樹・天親にも勝れたるか。、、、、、、、

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、、伊与房は機量物にて候ぞ。今年留め候い畢んぬ。、、、

として、伊与房は資質が優れています。今年は佐渡に留め置くことになった、、と養父の富木殿に伝えている。
このとき伊与房と共に佐渡に供養を持参した従者は、重要書「観心本尊抄」を富木殿宛てに持ち帰ることになった、、。

また、あの方は、この手紙において
、、仏滅後二千二百二十余年。今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず。当時果報を論ずれば、恐らくは伝教・天台にも超え、竜樹・天親にも勝れたるか。、、と確信を述べています。
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また「観心本尊抄」の送り状、「本尊抄御副状」では

帷(かたびら)一つ、墨三長、筆五管給(た)び候ひ了(おわ)んぬ。観心の法門少々之(これ)を註し、太田殿・教信御房等に奉る。此の事日蓮当身の大事なり。之を秘して無二の志を見ば之を開拓せらるべきか。此の書は難多く答へ少なし、未聞の事なれば人の耳目(じもく)之を驚動すべきか。設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べて之を読むこと勿(なか)れ。仏滅後二千二百二十余年、未だ此の書の心有らず、国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す。乞(こ)ひ願はくば一見を歴(へ)来(き)たるの輩、師弟共に霊山浄土に詣でて、三仏の顔貌(げんみょう)を拝見したてまつらん

初めて聞く人は誤解を生むことになるので、無二の志あるものだけで読むこと、、三人四人座を並べて之を読むこと勿(なか)れ、、この書が一大事であることを示している。

佐渡で随伴給仕した若き日興、日持、日頂は、この最重要書「観心本尊抄」、塚原での「開目抄」などの著作について身近に拝し、生身の説法を請けた可能性が高いので、影響は大きい、、、その後の活動に大きく影響したものと考えられる。

研究者によれば、、日頂の貢献として、、「観心本尊抄」副本を、日興の重須談所に納めたこととされる、、日興は佐渡において立ち会っているので内容は承知しており日興、日頂、、そして学林の学頭で実弟の日澄とは、先師の思いをどう感じていたかに余地はない、、でしょう。

つまり、、、A班の行動基準とB班の認識は、B班の佐渡における生死に直面した極体験により大きく変化した、、鎌倉で組織防衛に苦心する日昭達A班の現場感覚との差は、、やがて、あの方の入滅後に双方の分派に繋がる、、、のではないか。




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