六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー⑤

■日頂の泣き公孫樹(いちょう)伝説

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「あの方」の三回忌(1284)に日頂が遅参したとされる(中山法華経寺)ことで、義父の冨木常忍のもとに釈明に向かった日頂であったが、冨木常忍は許すことはなかった、、、。その後、、、

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「泣き銀杏」の名の由来(市川市の公式ホームページ)

法華経寺の開山日常上人の義子で、日蓮の六老僧の一人日頂(にっちょう)上人が、 日蓮聖人三回忌の法要のとき、鎌倉で他宗の僧を相手に法論していたため、 法要に間に合わなかったことから厳格なる日常は大変怒って勘当してしまいました。
 正安元年(1299)日常の危篤の報を受けた日頂は真間山弘法事寺から日参して、この銀杏の樹の下で義父日常の快復を祈願し、日常に会えることを願い出たのですが、ついに日常上人は許さず、小袖一領を形見として日頂に与えたといいます。 日常の遷化(せんげ)を聞いた日頂は、小袖を首に巻いて樹下に臥し転び、 声を放って悲嘆にくれたところから「泣き銀杏」の名が起こったといいます。
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日頂の無念の叫びが聞こえそうです。
伝説は、何処までが事実に近いものかは、解りずらいが、、
失敗の多い凡遇のわが身としては、日頂上人に同情と身近さを感じ、、「泣き銀杏」の前に立つと、、わが身のことのように胸を打ちました。

、、、、その後、、、日頂は下総国八幡庄を去り、、実弟(日澄)のいる富士山麓に移り、、やがて母を迎え、重須の日興上人の一門に属することとなった、、。

あの方が入滅された後の一門の中で、、、六老僧の一人である日頂への評価ですが、やはり影が薄い観があるようです、、そして「泣き銀杏」の伝説の奥に、、既に一門の分派の予兆を感じるのです。

一連の分派の背景には、、、「あの方」を支えた千葉氏御家人達の、その後の変化も調べる必要がある。

遡れば、、、
「伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、治承4年(1180)に挙兵したが、8月「相州石橋山の合戦」で平家との戦いに敗れ、同国土肥郷真名鶴岬(現真鶴岬)から小船で安房国へ逃れた。」

次は、、石橋山の合戦に敗れ、安房に逃れてきた源頼朝の挙兵を支え、、鎌倉幕府成立に大きく貢献し権勢を伸ばした、、千葉氏一族と、その時代の流れを確認する。

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「泣き銀杏」の写真を撮りに行ったついでに、、、中山法華経寺内を散策
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この寺最古 室町時代の建造物「法華堂」
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こちらは、、あの方の御真筆が厳重に保存されている場所。
看板には毎年11月に閲覧できるとあるが、寺に確認したところ、現在は文科省の指導で閲覧は中止になっている。
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今回は家から車で15分の場所なので、1時間ほどで取材完了、、。
帰りに、、法華経寺と中山競馬場の中間にある、、市川市東山魁夷記念館の
白馬亭で珈琲タイム、、AM10時では、、まだ独り占めです。

記念館のお隣は、画伯が市川の住まいとした家があり、最近まで奥さんが住んでいた。

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記念館で来年のカレンダーを買いました
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