テーマ:歴史

中岡慎太郎 その7 28歳  時勢論 高杉晋作

現場主義というか、、かって、、庄屋になった慎太郎は農民のために最善を尽くした、、 現状を打破するために、、尊攘派として行動を起こした、、そして、、今は、、五卿と共に三田尻にいる、、必死に時勢を見ている。 「禁門の戦い」に長州が敗退し、しかも朝敵の汚名を着せられ、、長州藩征伐の幕府軍包囲網が攻めてくる、、長州は四面楚歌となった。 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

中岡慎太郎 その6  27歳  西郷との出会い

■池田屋事件と禁門の変(長州の御所襲撃) 長州藩では、三条実美や尊王攘夷派公家の赦免を求め、藩主の冤罪を雪ぐ「新発論」を木島又兵衛が進めていたが、、池田屋事件(※幕末の1864年7月8日(元治元年6月5日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織で…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

中岡慎太郎 その5  26歳-2  脱藩

混乱は続く、、、 ■寺田屋騒動 寺田屋は薩摩藩の常宿である。 後に、坂本龍馬が襲撃されたのも、、この寺田屋だ、、、 ----------- 文久2年、、藩兵千名を率い上洛した島津久光は、、尊王派におおきな期待を持たせた、、ところが、それは誤解であった。 久光にはこの当時は倒幕ではなく、公武合体がその路線であった。 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

中岡慎太郎 その4  26歳   五十人組

江戸城下の治安が、、乱れ始めた、、幕府改革の重要な課題に、参勤交代制度の転換が挙げられていたが、、諸大名に負担の大きい参勤交代制度を、、3年に一度に改める、、また、、江戸に置かれた家族の帰国を許すなどが実行された。 実は、、参勤交代の経済効果は大きく、、この制度改革により都市の民間経済は、、大きな打撃となった、、のである。 なん…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

中岡慎太郎 その3 24歳 土佐勤王党

時世は大きく動いている、、、 鎖国か、、開国か、、国論は割れるが、、幕府大老井伊直弼は列強からの圧力に耐えられず日米通商条約、和親条約に踏み切る、、と同時に、、国論統一のために一橋派への政敵弾圧を進める、、いわゆる「安政の大獄」である、、. 弾圧に対する反動は水戸藩過激派による幕府大老井伊直弼の暗殺、、「桜田門外の変」安政7年3月3…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

中岡慎太郎 その2 18歳 庄屋見習い

慎太郎の生家は、、北川郷内14ケ村、戸数649 人口2799人 地高400石 ばかりか、近隣奈半利川甲浦の庄屋たちの元締めでもあった。 裕福な名家の坊ちゃんではあるが、厳しい勉学と、、父からの躾により幼児期からすでに神童と言われたようだ、、、 天保9年(1838)4月に北川郷中岡家の嫡男として誕生、、父小伝次58歳の待望の男子誕…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

中岡慎太郎 その1  15歳 田野学館

■田野学館 「いまーのご公儀のまつりごつは、この海を狭くし、我が国を世界から取り残そうとしておる愚策じゃき」 間崎哲馬の物言いは、いささかの揺るぎもなかった。 15歳の慎太郎は心酔していた、、、この間崎という先輩は、、この国の「鎖国は愚行である」、、と言い放つ。 「海を狭くする、、、」室戸の海を見て育った慎太郎※には…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

「日持上人大陸踏破事跡」中里右吉郎 謎の調査書

「あの方」が弘安5年(1282年)10月13日、辰の刻(午前8時頃)、すべての化導と相承を終、弟子・檀越が唱題するなか、御歳61歳をもって入滅された。後継者としては六人の本弟子(※1)とされる老僧(※2)日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持がいました。 前回は、、六老僧のうち、、日頂、日持の記録が少ないので、、まずは日頂上人を追って…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

柴又帝釈天の板曼荼羅が真跡なら、、

映画の寅さんで有名な柴又ですが、、参道の団子以外にもウナギ、川魚料理などを目的に出かける人も多い、、。 もちろん、、ここは帝釈天を本尊としたれっきとした日蓮宗のお寺です、、。 ----------題経寺サイトより-------- 経栄山題経寺(日蓮宗)と言い、寛永年間(1629)に開基され、開山上人を下総中山法華経寺第十九…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

市川考古歴史博物館--② 大野の旧住民は成田の新勝寺に参拝しない

市川市の大野は、かって平将門(たいらのまさかど)の出城(でじろ)があったという言い伝えがあります。 奈良時代から平安時代へ、、朝廷の勢力は律令国家の熟成期、、蝦夷征伐にも力がそそがれ、、蝦夷地を制圧、、霊亀元年(724:奈良時代)陸奥の国が造られた、、坂東など八カ国から1000戸の住民を陸奥に移住させ、、開拓にあたらせます。 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

市川考古歴史博物館 国府台-頼朝の再挙-千葉氏-冨木常忍

あれ、、運転免許証が期限が切れる!、、じーさんは今回から3年で更新であった。 あわてて、、高齢者講習を申し込み、間に合ったのは1か所、、市川市国府台の自動車学校、、13:00から15:00の2時間の受講を受けることにした。 この学校の近くには、、古くは大和王権の古墳が有り、、律令時代には国府、国分寺が置かれ、、鎌倉時代には千葉氏…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

「無文銀銭と七支刀」発刊 H氏

古代史 「無文銀銭と七支刀」と題して、古くからの友人で会社役員もお願いしているH氏が、長年の古銭の趣味を集大成してこの本を出版した。 無文銀銭について、これだけ多くの写真を紹介する資料本は、今まで無かったので大変に貴重な資料だ、、と本人は熱く語ります。 無文銀銭は出土が少ないので古銭の価値も、すごいらしい、、、一千万円と…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

じーさん徘徊 正月の富士山周遊 その2  法連寺(松野)

   <法連寺から富士を見る> 富士川に沿った山間の集落であるが、現在は住居が景観を阻んでいる。 法連寺は、「あの方」の後継、、六老僧の一人、、日持上人誕生の地と言われるが定かではない、、、。 Googlで空から見れば、、駿河湾、富士山、富士川の位置が良く分かる、、、。 そして、、富士川の反対側には、、岩本実相寺がある、…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

じーさん徘徊 正月の富士山周遊 その1 (loop around the Mt Fuji)

女房と2人だけの正月は、、どうも、話題がうじうじと消極的になって面白くない、、。 急に富士山が見たくなった、、。 暮れからの腰痛も回復してきたし、、急きょホテルとレンタカーの予約をして、、家出する。 新幹線こだまで「新富士」着、、まずは、やはり「田子の浦」海岸でしょうね、、、 天気は上々、、素晴らしい富士山の…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー⑤

■日頂の泣き公孫樹(いちょう)伝説 「あの方」の三回忌(1284)に日頂が遅参したとされる(中山法華経寺)ことで、義父の冨木常忍のもとに釈明に向かった日頂であったが、冨木常忍は許すことはなかった、、、。その後、、、 --------------------------------------------- …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー④

■日頂と日向は、、師の葬列に参加していない? あの方は、、 弘安5年(1282年)10月13日、辰の刻(午前8時頃)、すべての化導と相承を終、弟子・檀越が唱題するなか、御歳61歳をもって入滅された。 この時、地震が起こり、10月に桜が咲いた、、という伝説がある。 前9月25日には、弟子達に「立正安国論」の講義をされた…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー③

■伊与房(日頂)は、文永10年4月に佐渡に到着した、、。 文永8年(1271)11月(新暦1272.1)に、、あの方が極寒の佐渡の塚原に流配されてから半年が過ぎ、、翌年春、、4月に配所は塚原から一の谷に移ります、、。 富木殿の養子となっていた伊与房(日頂)は、富木殿の従者とともに佐渡に向かった、、 日頂の佐渡行きは…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー②

■真間釈迦仏供養逐状(真間仏供養抄) 冨木殿(1215-1299:富木五郎左衛門尉胤継:千葉氏被官:出家して常忍) は、真間の「御所領堂」に釈迦仏を建立したことを「あの方」に報告した、、。 それに対する返事が「真間釈迦仏供養逐状」健治3年(1277.9.26)です。 -----------------------------…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー①

弘安5年(1282)9月、、、あの方は、9カ年を過ごした甲斐の国の身延を離れ、、故郷安房の国を目指していた。 体調はおもわしくない、、冬を前に地頭の波木井実長からの勧めで茨城常陸の湯に養生するための旅であった。 あの方を馬上に、一行は鎌倉街道から、、、多摩川に向かった、、多摩川河口から舟に乗る海路が負担が少ないと考えたのでしょう…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑪ 金沢百景 二子浦~六浦 船中問答

JR総武線下総中山駅と西船橋駅の中間にある地名「二子(船橋市)」であるが、、、かっては、「市川砂州」と呼ばれる低湿地帯に面していたらしい、、、そして海岸線は、この場所まできていたのだ、、この「二子浦」から千葉氏被官の冨木常忍の館までは、現在残る「二子の池」伝説を頼りにすれば1200mである。 冨木常忍が鎌倉へ通勤するには、…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

じーさん徘徊 川越 星野山 無量寿寺(天台宗別格本山 中院)その1

自宅から1時間半、、、最近は人気の観光地となった「川越」に行く、、、 すごい、、人気の「蔵通り」「お菓子横町」は足の踏み場も無いほどの人ごみ、、、 外国人も多い、、 30年ほど前になるが、、、サラリーマン時代、、地元埼玉県では有力な地場企業のS事務機という会社さんと一緒にセールス活動をしていた。 S事務機は、コンピュータ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

グリーンエネポール  ユーザー訪問(上田市~上越市) その2

暑いので、、幾つかの予定をキャンセルして、、、上越に向かう、、、 上越インターから20分、、、春日山(春日城跡)は上杉謙信の居城、、、 次のユーザーに行く前に立ち寄ることとなった。 標高189m。北に越後府中こと直江津と日本海を望み、南に高田城下を望む山である。高田平野を一望できる位置にある。 ※思っていたより低い山だが、自…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

グリーンエネポール  ユーザー訪問(上田市~上越市)その1

久しぶりにユーザー訪問しました。 今回は社内のシルバー旅行と合わせて、「真田丸」で話題の上田城から上越市の高田城や上杉謙信の春日山も訪れます、、、、 上野から新幹線で1時間20分、、上田に着きます。 駅レンタカーで車を借りて出発、、。 駅から徒歩でも行ける上田城、、、の裏手にあるのが、、、円覚院芳泉寺 浄土宗。開創…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

シャーリープトラとマウドゥガリヤーヤナ

シャーリープトラ(舎利弗)とマウドゥガリヤーヤナ(目連)は、、、釈迦10大弟子で、、舎利弗は智慧第一と言われマガダ国の王舎城(ラージャガハ)北、那羅陀(ナーラダ、現ナーランダー)村出身で裕福なバラモンの家に生まれた、、、 目連は神通第一と呼ばれマガダ国の王舎城北、拘利迦(コーリカ、或いはコーリタ)村の バラモンの裕福な家に生まれた…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

曽谷山 法蓮寺  その1

自宅から車で15分、、女房の実家に近い市川市大野の丘の上にある法蓮寺は、「あの方」の従兄弟(母方の縁者)とも言われている関東武士の曽谷教信が出家して晩年に創建(建治三年 1277)しました。 曽谷教信は、松戸の本土寺の創建にもかかわっています。 拙者Blog 身池討論(1630)国家権力との迎合 http://tokatu1.…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

身池討論(1630)国家権力との迎合

1カ月まえになるが、、、 紅葉真っ盛りな、、松戸市平賀の本土寺に行ってきた。 本土寺の紅葉観賞は2回目であるが、前回は門前の漬物屋と白いお洒落なcafeでお茶をしたことしか記憶に無かったので、、今回は深入りする、、、。 平賀の本土寺は、千葉氏の家臣で大野の曽谷教信(曽谷法蓮日礼)が地蔵堂を改宗して法華堂…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

集団的自衛権  自民・公明の思惑が外れたら- ④  権力の魔性

権力の魔性とは、良く言ったもんだ、、、今回の安部内閣だけでは無い、、民主党の鳩山さん(出来もしないことを言ってしまう)、管さん、野田さん、かっての小沢(今は女房にも逃げられ弱体)さんらは、今思えば、まだ可愛い方だ、野党や党内派閥の前に屈する弱さがあった。 今の安部内閣は、、自民党内を掌握するばかりでなく、公明党という下請を配下にし…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑩  私は仏にはならないと請願した菩薩

武士は殺生を逃れられない、、、戦では人を殺す、、それは、仏教的には成仏できない、、 鎌倉武士と、、その女房には、、救われない思いが強かった、、、。 そんな中で、、仏になることを拒否して、、たとえ地獄に落ちても、、現実の苦悩に立ち向かおう、、ひたすら、、現実と向かい合う修行者でありたい、、菩薩、、という姿こそ鎌倉武士に救いを与え、…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑧ 材木座(zaimokuza) 浜土流 実相寺  

<鎌倉材木座海岸の海の家でビール> 鎌倉の材木座海岸、、、、、 名称は鎌倉時代に鎌倉七座(米座、相物座、博労座、炭座、材木座、絹座、千朶積座)という商工組合があり、これに由来する。(Wikipedia) 1953年に、鶴岡八幡宮の一の鳥居と海岸の間の、滑川の東岸にあった「材木座遺跡」を発掘調査した際に、約65…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

集団的自衛権  自民・公明の思惑が外れたら- ③ 傲慢!詭弁の自公

どんなに言葉巧みに、、説得を試みても、、庶民は、、その欺瞞を敏感に感じている、、、。 本来、、憲法を変えなければ、、行えない「集団的自衛権」を詭弁をもって、、政府の解釈で変えてしまうなど、、もっての外だ、、 そういう事をやってしまうのは、、権力を笠にきた傲慢な思い違いだ、、国民の声を聞く、、とは改憲に必要な国民の2/3の…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more