石城山  (明治維新の謎)

八合目あたりには、意味不明の土塁、列石がぐるりと廻らされている。
標高360メートルほどの山城跡で、重要文化財の石城神社がある。

もう少し、海岸に近ければ、上関の制海権を押さえるための場所となるが、なんでこの山に高杉晋作の「奇兵隊」とは別動隊の「第2奇兵隊」が駐屯してたんだろうか?

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運転手が答えた
「近祐さんに言わせれば、そのころは「寅之助」が田布施にまだおったから、「玉」を守るために奇兵隊が配備されていたというのですわ」

「その後、寅之助は萩に連れ出され、そこで(松蔭の母から)帝王学を学ぶわけですが、村じゃあ大騒ぎになったといいます」

山頂からは、瀬戸内海と田布施の町が一望できた。

「伊藤博文はあの辺に住んでいたんです」

(その場所は、熊毛郡束荷村で、今は光市になっている、、、。)

「伊藤俊輔は、毎日のように大室家に来て、「寅之助」と石城山に登っていたと近祐さんがいっていたのを聞きました」

「田布施から総理大臣になったのは、初代総理大臣の伊藤博文の他にも岸信介、佐藤栄作がここの出身です、、、岸、佐藤、双方の親類として安部晋三もいますが彼は新宿の生まれで、彼のお祖父さんが山口の出身です、、、加えていえば橋本龍太郎の父龍伍は「大室ヨネ」の子と言われているので意外な関係があるかも知れません、、。」

「こんな小さな街から、3人の総理大臣を出すんですからオドロキでしょう、、、、、」

田布施公民館サイト 兄弟宰相
http://www.town.tabuse.lg.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&Cc=7d43160f3b3a10b

光市観光協会 伊藤公資料館
http://www.kvision.ne.jp/~h-kanko/new-hp/itou-siryoukan.htm

運転手は自慢げにつづける。

「共産党の宮元顕冶、昭和天皇狙撃犯の難波大助もこの辺の出ですよ、、、」

エキセントリックな人物がかたまっている。、、、、、、
(幕末 維新の暗号 加治将一 よりアレンジ)

やはり、、、、、、なにかがある。

運転手は続ける、、、
「有名な「七卿落ち」ですが、孝明天皇の朝幕派と三条実美の反幕攘夷派の争いの末、三条を担いだのは長州藩です、、、その時は孝明天皇が会津、薩摩藩の軍事力に頼り、長州は退却し、三条実美を含む7人の公卿が長州にのがれた、、、そのとき海路の要所である上関の室津に泊まった、、、そのころ長州藩300の護衛とともに、ここ麻郷の「大室家」に三条実美らが立ち寄ったといわれています、、、」

「14歳になる大室家の「寅之助」をとても可愛がっていたと、、、、、、。」

「ただ、、、、なにも残ってないんですよ」

「その後、薩長同盟、三条ら5卿らが田布施の高松八幡宮で「王政復興の大号令」を発して出陣式を行った、、、という話もあるのですが、、、通史には京都で発せられたことになっているんでねえ、、。ただ、麻郷には三条が滞在したという石碑が残ってます。」

やはり、、、、、、なにかがある。

地図で見る限り、上関の室津から田布施麻郷の高松八幡宮、そして近所の大室家は近い、、、、距離にして15kmくらいだろうか、、、、もしかしたら、室津の他に、田布施の高松八幡宮にも泊まったのではないのか、、、、、。

まあ、、そうでなくとも近くに来たことは間違いないようだ、、、、。
上関の本陣「肥後屋」に三卿、五卿が何度か宿泊したことは、わかった、、、、。



※----植村 俊也(うえむら としや)さんのサイト---copy----

文久三年(1863)の八一八の政変の後、都を落ちた七卿のうち三人がこの肥後屋に宿泊した。
翌元治元年(1864)七月、長州軍が京に攻め上るのに合わせて、五卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌)が上京する途上、再び肥後屋に投宿した。
五卿は鞆の浦まで西上したが、そこで蛤御門の敗報を聞き、長州に引き返している。
肥後屋は、室津の本陣として吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎ら、多くの志士が宿泊している。
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      肥後屋跡


第二奇兵隊は、高杉晋作の作った奇兵隊に呼応して、俗論党の優勢であった東部周防を正義党に塗り替えようという意図をもって作られたものである。白井小介、世良修蔵を中心として、富永有隣、楢崎小十郎、松宮相楽らが力を結集して、室積を拠点として同志を糾合した。更に立石孫一郎、楠本左内、大洲鉄然、中原雅平らが合流し、一時は総勢三百人を数えた。この時点では南奇兵隊と称していた。その後、訓練強化のために岩城山神護寺(廃寺)に転陣し、庶民の入山を禁止した上、練兵を日課とした。総督山内梅三郎が吉田の奇兵隊本体と兼任であったため、第二奇兵隊と改称した。慶應元年(1865)八月には世子毛利定広(のちの元徳)を岩城山に迎え、地雷火や小銃を実演して見せた。
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     第二奇兵隊跡

http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/index.htm
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※ここ肥後屋は、龍馬が脱藩の際に宿泊したとの説もあるが、推測の域を出ていない、、。

※では、実際の龍馬の上関での宿泊所はどこかというと、実はこれは地元に明確な伝承がある。
上関の昔のメインロード沿いにかつて商家の「中沼家」があり、ここに龍馬が宿泊したという伝承があるのである。
ここには「高杉晋作」も訪れたことがあり、密会場として利用できるよう、隠し部屋もあったというのである。
中沼家は大正から昭和初期頃、宿屋を営んでいたようだが、戦後、旧家は取り壊され、地権者も変わった。


※古来より海路の重要な拠点、潮待ちの岬、上関
かっては、この海峡を遣唐使・遣隋使が、また朝鮮通信使が、参勤交代の大名が、維新の志士たちが立ち寄る、風待ち、潮待ちの宿場であったようだ。


※参考サイト
瀬戸内海の旅以外にもこの人の古跡をめぐる旅日記は写真豊富です

http://www.iokikai.or.jp/siomatinominato.index.html

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「ほかに「寅之助」について、、、」、、、、言いかけて、唾を呑みこんだ、、、自分でも鼓動が高鳴っているのがわかる、、。

「それが、寅之助が大勢の芸者を連れて麻郷に帰ってきたんです、、、、しかも本人も女装して、、、」

女装して、、???

それは、1867年10月下旬と言われている。

直後に、薩摩藩3000の兵が鹿児島から4隻の軍艦に乗って出兵、、、、、西宮に上陸する。
鳥羽伏見の戦いの準備に入った、、、。

「それに合わせて、、、、、寅之助と三条他の五卿、島津久光、薩長同盟幹部は、先ほどの田布施の高松八幡宮での王政復興の大号令を発した、、、といわれてます、、、、」

まてよ、、、1867年10月下旬と言えば、、、大政奉還のその直後では、、、ないか、、、

1867年10月14日:慶喜、朝廷に「大政奉還」を上奏、、、、である。


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このころ、凄まじい幕末の攻防が続く、、、、、。

1866年12月5日(慶応2年):慶喜、15代将軍に就任
1966年12月25日:孝明天皇崩御(37)

※「孝明天皇の崩御は天然痘にかかったものとされている。しかし、数年後、私はその内幕に通じている一人の日本人から、帝は毒殺されたと教えられ、それを信ずるようになった」---アーネスト・サトウ

※岩倉具視が帝に新しい筆を献上したという、帝は筆を舐める癖があった、、、、。
※孝明天皇は公武合体+攘夷論であったとされる。

慶応3年
1867年1月9日:睦仁親王が16歳で天皇践祚
1867年3月20日(慶応3年):龍馬、中岡が下関で会合
1867年4月上旬:亀山社中を土佐海援隊に改編

1867年4月19日:「いろは丸」が銃器、弾薬を積んで長崎を出航
1867年4月23日:「いろは丸」が紀州藩船「明光丸」と衝突、24日沈没
1867年5月29日:龍馬は紀州藩から賠償金八万三千両余の支払いを約す

1867年6月9日:龍馬、後藤象二郎と「夕顔丸」で長崎より京に向かう、
1867年6月15日:龍馬、京都酢屋にて「船中八策」を起草する。

1867年6月22日:薩土盟約
1867年6月26日:薩摩、土佐、安芸藩による「薩土芸盟約」
1867年7月29日:龍馬、松平春獄から山之内容堂への親書をもって京に向かう
1867年8月1日:龍馬、親書を佐々木三四郎に渡し、そのまま土佐に同行
1867年8月12日:夕顔丸で須崎から長崎に向かう
1867年9月18日:龍馬、長崎を出航

1867年9月20日:龍馬、下関にて伊藤俊輔と会う

1867年9月28日:龍馬、6年ぶりに坂本家に帰る
1867年10月3日:土佐藩が幕府に「大政奉還建白書」を提出

1867年10月13日:慶喜、二条城に在京40藩重役を招集、「大政奉還」を諮問

1867年10月14日:慶喜、朝廷に「大政奉還」を上奏
同 日      :薩摩、長州に「倒幕の密勅」が下る(偽せ勅書説もある)。


凄まじい毎日が続いている、、、、、。
※どうやら、この間、倒幕派と佐幕派とで、運命を決するギリギリの駆け引きが行われていた、、、、。

※土佐藩や龍馬が、武力倒幕を回避すべく、必死の画策に動いていることが分かる、、、幕府の政権返上を盛り込む「船中八策」は妙案として、建言されたが、、、、

10月14日大政奉還という歴史的決断のその日に、薩摩、長州に「倒幕の密勅」が下るとは、、、
まさに、双方の策動は、ピークを迎えていた、、、、

※意表をついた慶喜の「大政奉還」が武力討幕派の機先を制したかに見えた、、、、、、。


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1867年(慶応3年)11月15日、、、、、坂本龍馬、中岡慎太郎が近江屋で「十津川藩士、、」の名刺をもってきた数人の男に暗殺された、、、、。

大政奉還の1ヵ月後に、龍馬と中岡慎太郎は、激動する情勢を、近江屋の2階で話し合っていたのだろうか?、、、。

、、、、、襖を開けた男たちは、挨拶をするまもなく切りかかってきた、、、。
一人が「こなくそ」という叫びで龍馬の前頭部を横になぎった、、、。
龍馬は床の間の大刀に手を伸ばすが、二の太刀、三の太刀を浴びて倒れる、、、。
龍馬は34箇所、中岡も28箇所の傷を負った、、、。

「慎太ぁ、、わしゃ、脳をやられたき、、、、もう、いかん、、、、」、、、、龍馬は絶命した、、、。
11月15日(陽暦12月10日)午後8時すぎ、京都三条河原町、近江屋2階で、、
、、、、くしくも、その日は龍馬33歳の誕生日であった、、、、。

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日本国中を火の海にしてはいけない、、、奇策に掛ける竜馬、土佐後藤象二郎、、勝海舟、春獄であるが、武力倒幕派の岩倉、長州伊藤、薩摩大久保から見れば、幕府権力を温存し、再び復権の機会を与える行動に、、、危機感をつのらせたであろう、、、、
龍馬の必死の努力も、、奸物としか写らなかった、、、ついに、その意志を貫徹することなく、、、幕末維新の舞台から去っていった。

その日、お龍は下関の伊藤家「自然堂」に妹起美と身を置いていた。「血刀を下げた竜馬が、しょんぼり枕元に座った」夢を見たと言う、、、。

お龍は、胸騒ぎを抑えられずに、思わず戸を開けて表に出た、、、漆黒の空を一条の光を放ちながら流星が落ちていくのを見た、、、、ああ、、、そして、直後にその予感は的中した、、、。
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龍馬、中岡暗殺の10日後、 11月25日、、、、、、、長州藩は第一陣として1200の兵を海路から、第2陣の1000人の部隊を陸路から西宮に進軍させる、、、、。


運転手
「寅之助は第2奇兵隊に護衛され、三条らと英国船に乗船して薩摩の軍船とともに京都を目指した言われています、、、、」

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※1867年12月9日
 徹夜の朝議の結果として、岩倉具視が「王政復古の大号令」を発し、新政府樹立を宣言した、、、。


そして
※1868年1月(明治1年):鳥羽伏見の戦い

1868年1月3日:
幕府軍1万5千名は京都に向かう、薩摩、長州など5千名が伏見市街で戦闘、、、土佐藩は一部の倒幕派が参戦した、、。

1868年1月4日:
仁和寺宮嘉彰親王が錦の御旗を掲げて参戦、翌5日に前線で御旗がひるがえると状況が一変したといいます、、。

その効果はてき面であった、、、。朝敵となることを恐れた津藩など各藩が寝返る、、、土佐藩は主力参戦、、、
この御旗は岩倉具視らが、数ヶ月前に作らせていたものだ、、、、。

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大阪城に戻った幕府軍であったが、会津藩、桑名藩の士気は衰えてはいない、、、慶喜が反攻に出ると考えていた、、、
ところが、慶喜は6日夜間に大阪城を抜け出し、8日に開陽丸で江戸に帰還してしまう、、、、。

※1868年1月7日:新政府 徳川慶喜追討令を発布する。
※1868年1月8日:慶喜、軍艦開陽丸にて江戸に帰る。

旧幕府軍は敗北となり、三々五々軍艦に乗り込み江戸に向かう、、、新撰組もこの中にあった、、、。

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運転手

「鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利しました。このとき、ようやく「寅之祐」が大阪に上陸するんです、、、、。」

「1月10日、京都御所にいた睦仁天皇は、御所を脱出、比叡山方面の某寺に逃げ、僧侶となった、、、、とも、、、暗殺されたとも言われています、、、

※1月15日、薩摩藩邸で待機していた「寅之祐」が軍隊とともに御所に入った、、と聞いてます。」


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※1868年3月:甲州勝沼の戦い、新撰組隊の甲陽鎮撫隊が大敗する
※1868年4月:江戸城無血開場
※1868年4月:宇都宮の戦い
※1868年5月:奥羽越列藩同盟成立
※1868年5月:上野戦争
※1868年5-7月:北越戦争
※1868年8―9月:会津戦争
※1868年12月:蝦夷共和国樹立
※1869年5月(明治2年):函館戦争


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奇兵隊
※ところで、高杉晋作が組織した長州奇兵隊であるが、維新を転戦し函館戦争まで戦い抜いた功績は大きいはずであったが、半数が騒乱を起こし、その結末は明治政府に7万発の弾丸を浴びせられ、130名の斬首の処罰受けるという悲惨な出来事となってしまった、、、、。

設立当初300名ほどであった奇兵隊は、維新の戦争の中で5千名に膨れ上がっていった。
しかし、戦後になれば、全てを採用することは出来ない。
国家常備軍の整備と再編に伴い、奇兵隊の半分、二千五百名は解雇となった。


運転手

「不満を持った残党は、藩庁を取り囲み騒乱となったのです、、、。
そこに、事態を重く見た政府(木戸孝允が責任者となり)は、常備軍を動員して、一夜に7万発といわれる弾丸を撃ち込み、鎮圧し、その後、斬首130名を含む全員の処罰を実行したといわれています、、、。

その中には、寅之祐を護衛した、あの第2奇兵隊も居たと思わざるを得ません、、、。
全ては闇の中に消えてしまったんです、、、、、。」

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※運転手

昭和58年頃の話なんですが、、、、大室家に宮様が来たんです、、、

1983(昭和58)年、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か)が 大室家にやってきた。
この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と懇談 しているうちに次のような打明け話をしたという。  
「今上陛下(昭和天皇・裕仁)の子とされている明仁親王(1933年生)は、実は陛下のお子ではない。
明仁親王が五、六才のころ血液検査をして調べ たところ、天皇裕仁の子ではないという ことが判明した。
おそらく崇仁親王(三笠宮)のお子であろう。もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。だから、陛下はご自分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」。

 その時、たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹 ・1948生)の長男貴雄 (当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目 でじ-と見ていた宮様は、 突然、 「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と言いだした。  

 近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、平身低頭しながら次のように説明した。  
「明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあおれん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているのだ。この児 (貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。
私が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実は このようなこともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」 。

 なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、宮様が慾しがったのも無理はない。

また明治天皇(大室寅之祐)の弟・大室庄吉の玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。

筋の通った話で ある。 そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。
みんなでいろいろ話し合った末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなる だろうし、 毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫 をやる訳に はいかん」 という結論になって、この話を断わることにした。

、、、、、、と言うんですわ、、、、、、、、、



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※関連
本物か 維新の写真(すごいぞ!)
http://tokatu1.at.webry.info/200912/article_6.html
























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