ニュータウン葦原之中津国島の謎

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※この島には、、古くは3万年の昔より、、大陸から海洋から北から南から、、様々な民族が、移住してきた、、
  やがて、民族、文化の混沌から、、、葦原之中津国島(ASHIHARA NO NAKATUKUNI)と呼ばれるニュータウンが創られた。
他国からは奴国(NAKOKU)と呼ばれ邪馬台国(YAMATAIKOKU)となり倭国(WAKOKU〰YAMATO)と呼ばれ、、、日本(YAMATO〰NIPPON)になった、、、。

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以前のBlog
「源氏と平家は百済系と新羅系の争い??」

治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)
http://tokatu1.at.webry.info/201002/article_1.html

実は、、源平の戦いは、更に遡ることになる、、、。
そのときのBlogにもメモしたが、、、

■「白村江の戦いこそ、、源平合戦のルーツ」ではないか?■

<白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)>

 663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の、海と陸の会戦のことである。

この戦いは、唐・新羅連合軍の大勝利に終わった。大陸に超大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。この敗戦により領土こそ取られなかったものの、倭国の国防体制・政治体制の変革が起きた。この結果、倭国から日本に脱皮するようになるなどの、大きな影響を日本にもたらした。


戦力

唐軍 7,000人
唐船舶 170余隻
新羅軍 5,000人
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倭国軍 42,000人
倭国船舶 800余隻
百済軍 5,000人
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損害

新羅連合
不明(倭国・百済連合軍の被害よりは小規模)

百済連合
船舶 400隻、兵 10,000人、馬 1,000頭


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そして、、この時

<中大兄皇子>;百済武王の子、翹岐(ぎょうき)こと中大兄皇子は、百済復興に命を賭けようとしていた。

<大海人皇子>;高句麗の将、蓋蘇文(がいそぶん)こと、大海人皇子は、高句麗を守るために倭国出兵を狙う、、

<斉明天皇>;出兵に消極的、直後に暗殺される

であった、、、。

「本当は恐ろしい万葉集」
小林恵子著



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この戦さは、、唐+新羅軍によって「百済滅亡」となった、、半島に、、
倭が、、百済奪還の救援軍を出した形となっているのだ、、、
このことから見ても、、当時の倭と百済の関係がわかるが、、

そして、唐+新羅連合が勝利し、、百済+倭国連合は敗北した、、、、、、

■天智天皇(百済系)
百済奪還の戦いに失敗した倭国においては、、、
中大兄皇子(668天智天皇)が正式に即位し、、

、、内政重視となる、、

敗戦のあと、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。
また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。
さらに667年には、天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移して、防衛網を完成させた。

  ※一方で戦後処理として唐との関係模索した、、、、、。

  天智天皇は唐との友好関係を強化しようと、669年に河内鯨らを遣唐使として派遣したという、、

668 唐が高句麗を滅ぼす

669藤原(中臣)鎌足 没
671天智天皇 没

  ※天智天皇派と大海人皇子(天武天皇派)の確執--

  歴史では、天智と天武は兄弟と説明されているが、、異説としては天智は百済の王子、、天武は高句麗の将軍とする説(小林恵子;本当は恐ろしい万葉集)等の非兄弟や異父母説があるが、、、、ここでは、「非兄弟説」を採用したい。

672壬申の乱   (大海人皇子の反乱)
  天智天皇の嫡子の大友皇子自殺


■天武天皇(新羅系)

673大海人皇子(673天武天皇;)即位 
  ※新羅との友好関係、、。

  皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を構築してゆき、新たな国家建設を進めていった。
天武天皇は、遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。
また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。
これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。

※この構図は、、、、現在の日本+韓国×中国+北朝鮮、、?、、のような、、、
もしか、したら、、まさか、、、古代からの血が、、相性とかいう遺伝子になったのか、、、。

※天智天皇が、、内政重視に、、そして天武が、、勢力を強める新羅との和親に動く、、、この頃の半島情勢が、直接、、倭国の政情に大きく影響していることがわかる、、。

676 新羅、朝鮮半島を統一
 
686 天武天皇(40) 没
   大津皇子 自害

689 草壁皇子 (持統の子)没 28歳

690 
■持統天皇(41)(百済系) 即位

  ※持統天皇は、天智天皇の娘(政略結婚)で、、、、「本心は」、父の天智天皇の百済系である、、
自身の子、草壁皇子を天武の後継に考えたが、、、、草壁は28歳で病死、、、
そのため自ら女帝となり、、草壁の子(孫)の軽皇子(文武天皇(42))の成長を待った、とされる、、。

   天武天皇時代には不運であった天智系の藤原不比等(鎌足の子=百済系)を、大抜擢して、、、、
大宝律令をして、政治の実権を握らせる、、また、記紀編纂にあたらせる、、。

  新羅が朝鮮半島統一の勢いを駆って侵攻して来ることも、、、怖れた日本は、海岸の防備を固めるなどの警戒を怠らず、両国の関係は、天武天皇没(686年)後は次第に悪化する事になる、、

  つまり、天智系(=百済系)の持統天皇+藤原不比等の体制となって、、新羅との関係は再び悪化するのです、、、。


694藤原京

696高市皇子 没

697文武天皇(42)(草壁皇子の子)即位  

710「平城京」遷都

712「古事記」献上 太 安万侶
720「日本書紀」奏上 舎人親王

  
■倭国(WAKOKU)という蔑称から日出国の「日本」に変身

 
※この時代に、、「倭国」から「日本」に、、「大王(おおきみ)」から「天皇」に改称した、、、、

半島からの執着から離れて、、この国の形を説明する公式歴史書、、古事記、日本書紀が編集された、、、

大陸から離れた小さな島に、、、ニュータウンを求めて移住した、、多くの民族は、、ここに
倭国から、、、新たな「日本」という国の形を内外に、、、示したのだ、、、。

※半島からの別離、、この時、、日本列島に住む「秦人」「漢人」「高句麗人」「百済人」「新羅人」「加羅人」などの民族の全てが、、「庚午年籍」という戸籍によって、、、「日本人」として、、統一されたのだ、、、。
この島国は、、その後、、海外からの侵略も無く、、単一民族化してゆくのだ、、、、。

そして、、国書である記紀は、、、、

この国の民は、、天から降臨してきたのだ、、、と、、単一民族国家であることを解説する、、、。

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もともと、、、倭人とは、日本のことだけではなく、、辺境の文化の低い人種を指す、、ので、、ミャンマー、タイ(La・Wa)、カンボジア、ラオス、四川省北東部、陝西省南西部、、なども倭人と呼ばれていた。

「中国正史 倭人・倭国伝全釈」 鳥越憲三郎

※大雑把に言えば、、、倭≒「田舎もん」、、、ですかね、、。

倭国とは、、蔑称、、、このことから、、大和の内政に取り組む、、、日出国の名前を内外に示す必要があった、、。

  それにしても、、、、かって、、厩戸皇子と蘇我馬子らが発議し記録した、「天皇記」、「国記」、「本記」が消失した、、、。

そう、、伝える、、、怪しげな日本書紀の内容を、、丸ごとは信用はできないが、、、、、、
この時、、持統と不比等は、この国のDNA組み換えに成功し、この地球に「日本」という、、現在に至る形を残したのだ、、、、。

、、、

781桓武天皇 
、、、※このころ「桓武平氏」の誕生

、、、
872経基王(清和天皇の孫)に源姓を賜う、、
 ※清和「源氏」の誕生

935 平将門の乱  坂東平氏の土着

平氏の伊勢進出と定着

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ちょっと長かったが、、

源氏が誕生する200年前、、、、天智天皇、、天武天皇の時代に遡ると、、
、、、天智(=百済系)と天武(新羅系)の確執があったことを思い出して欲しい、、、

と言いたいのです。

平家(百済系)と源氏(=新羅系)の確執の源流が、、見えるのです。
、、、つまり、、源平合戦は、白村江の戦いの確執や、天智、天武天皇の確執とも連なり、、、

当時の地方武士一族の血に、、引き継がれていたのではないかと、、、、、、。

思われてしまうのです、、。

■つまり、、、白村江の戦い以降に、、、高麗に追われ、、この島に逃れた、、新羅と百済の兵は、、
源氏と平家となってからも、、ニュータウンでも戦いを続けているのである、、、。

※それにしても、ニュータウン葦原之中津国島は、、7世紀-8世紀に、、飛躍的に発展した、、。

古事記や日本書紀は、、そのころに編纂されたのだから、、神話も、、時代を反映しているだろうことは、、想像がつく、、。
記紀は、支配者の都合によって編集されたものであるが、、

■別に編集された歌集「万葉集」には
、、暗号化された、、、歴史の真実が隠蔽された、、、とも、、言われているのだ、、。

そこのところを、もう少し探ろうと思う、、、、、。

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■万葉集は、、単に著名な歌人の秀歌を集めたものではない

 正史とされる「古事記」「日本書紀」に記せない、、暗黒の史実を反映させた政治的歌集である。
 以下、、小林恵子著「本当は恐ろしい万葉集」「西域から来た皇女」「大友家持の暗号」をベースに、万葉集の暗号に挑戦したい。、、、当然ですが、興味は歌ではなく、、裏読みのサスペンスだ、、、。

※かって、、「多民族国家」から、、統一「日本」に変身したとき、、言語は、、倭人の土語の音を、、ひとつ、ひとつ漢字に当て字して、、日本語を作りあげた、、。

しかし、、、他民族であった時代の土人語は久しく残ったでありましょう、、、、。

従って、、、それらが後々に、、隠語として伝えられても不思議ではないと考えます、、、。
万葉集には、、そんな謎が垣間見えるのでないかと、、、。


先の、、、「白村江の戦い」前夜の歌があるという、、、

熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな

熱田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

額田王(ぬかだの おおきみ)の歌(斉明天皇の代作と言われる)

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「熱田津から船出しようと月を待っていたが、潮もちょうど、よくなった。さあ今、漕ぎだそう」
が表の意味、、、

斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子が揃って、、百済復興のために西域の途についた時である。

古代韓国語で読むと、、

熱田津尓 ニギタシニ と読み、、、誰(ニギ)のせい(タシ)だろう、、と解読する。
船乗世武登 ベタセモドウ 、、、船に乗ろう、、で同じ意味
月待者  ドングルデシャ、、、まんまる、の意味で、、なだめられる、、と解読
潮毛  シボド、、、嫌々ながら、、の意味
可奈比沼  カナビネ、、、行くとみえる
今者許藝乞菜 イシェシャオギギナムセ、、、今は漕ぎだそうではないか

「誰のせいだろう。船に乗ろうよ。皆の者、なだめられ、嫌々ながらも行くと見える。今こそ、漕ぎだそうではないか」

となるらしい、、、、。

そして、、この時

中大兄皇子;百済武王の子、翹岐(ぎょうき)こと中大兄皇子は、百済復興に命を賭けようとしていた。
大海人皇子;高句麗の将、蓋蘇文(がいそぶん)こと、大海人皇子は、高句麗を守るために倭国出兵を狙う、、
斉明天皇;出兵に消極的

であった、、、。

※もっとも、、この歌を、、西沢徹彦著 「古代日本とヘブライ一掃政策」によると、、、

「ニキタヅニ フナノ」 貴方は私達を恐れ、手ひどく叩き出した。私達は容赦した。
「リセムト ツキマテバシ」 彼は、徴である彼らに罪をおかした。彼はその火による死を叫んだ。
「ホモカナヒヌ」 激怒はパヌエルを拒んだ。
「イマハコギイデテ」 彼は私達をしばしば射た。彼は高慢な貴方を消し去るだろう。

※これは、難しすぎますねえ、、そのような状況の時に唱える呪文のように聞こえますけど、、

熱田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

 にーきーたーづーにーふーなーのーーりーせーむーとーーつーきーまーてーばーしーーほーもーかーなーいーぬーーいーまーはーこーぎーいーでーてーーー

※王家に謡われ、語られる、、歌には、、、単に表の釈ではない、、、同族にしか判らない、、暗号が存在している、、、

これは、王族が、、王族であることの、、秘密の口伝、、、ミステリーだね、、、。



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白村江の戦いで、倭国+百済軍が敗北し、天智天皇が即位する、、

その後、、高句麗が唐に滅ぼされ、、
半島で唯一勢力となった新羅は、倭国の大海人皇子援護の準備を進めた
天智8年、、郭務悰ら二千人が、、筑紫に来日する、、

これに対して、唐に認知された倭王は、天智天皇であり、国内の軍事力(旧百済亡命軍を含む)をもって抑え込もうとした。


しかし、、、新羅を背景とした大海人皇子との対決となった天智天皇は勝ち目はない、、と人々は思っている、、

天智9年 天智朝は、クーデターにより崩壊した、、「書紀」では天智10 天皇没

万葉集148
「青旗の 木幡の上を 通うとは 目には見れども ただに逢わぬかも」

倭姫の歌

直訳
「青々とした山科の木幡(地名)の上をゆく(天智天皇の魂が、)私の眼にはっきりと見えるけれど、逢うことはできない」

朝鮮語 訓読
青(大海人)にやられた。遺言なさる天皇を見つけ、籠に留め、お乗せしたが、すぐ息を引き取りました。誠に可哀想でした

一方、、額田王(ぬかたのおおきみ)は、別の推測をして案じていた、、、、

万葉集151
「かからむと かねて知りせば 大御船 泊てし泊りに 標結はましを」

朝鮮語 訓読
「だしぬけです。やりなおせるものならやりなおしたい。そうすれば父親殺しも止められましょうから、しめをめぐらせないでください(葬儀をしないでください)

※ 大御船 オボミ.ベ ;オボミ(父親)、べ(斬る)

額田王は、天智天皇束縛は、犯人は、高市皇子だと思っていたので、この歌となった、、、

■額田王(ぬかだの おおきみ)
小林恵子氏によれば、額田王は「帰国子女」であるという、、、

620年代、、推古天皇末期、、聖徳太子亡きあと、、倭国は混乱していた、、
     このとき、百済の武王である田村皇子こと舒明天皇は、倭国に滞在したりしていた、、滞在時期に生まれたのが、、宝姫や文姫(額田王)であったと推論している、、。

その後、半島での百済と新羅の和睦に伴い、、文姫は、新羅の金春秋(武烈王)に輿入れした、、、

つまり、、倭国で育った文姫は、政略結婚で新羅に嫁いだ、、しかし、父の舒明天皇が没して、、異母兄の中大兄皇子と共に倭国に帰った、、従って歌を裏読みできる環境にあった、、、のでは、、としている。







-----------かきかけです-----------

















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