アラブ共和国シリアと日本の秦氏との接点--① いさらいの井戸

■肥沃な三日月地帯(ひよくなみかづきちたい、Fertile Crescent)

とは、古代オリエント史の文脈において多用される歴史地理的な概念である、その範囲はペルシア湾からチグリス川・ユーフラテス川を遡り、シリアを経てパレスチナ、エジプトへと到る半円形の地域である。

歴史的シリア、、、
紀元前8000年頃にはこの地域では麦による農耕が始められた。紀元前6000年ごろには「肥沃な三日月地帯」の一部として灌漑農業が発展し、紀元前3000年ころには農耕に富を基盤とした文明の萌芽があった、、。

紀元前3千年紀にはエブラ、キシュ、アブツァラリク、マリなど血縁によって結ばれた「セム語都市文明圏」が成立し、そのうちエブラは大麦、オリーブや織物の生産が行われ、「マリムーク」という指導者のもと、メソポタミアからパレスチナ、エジプトまで交易が営まれていた。紀元前23世紀頃には王の道やウィア・マリスという通商交易路が使われていた。エブラは紀元前2250年ごろにアッカドに滅ぼされる。

中東の気の遠くなるような、、戦乱の歴史は、、、大陸という、、地形と、、気候風土、、戒律を重んじる宗教、、などが今日に至っても戦乱が続く、、背景となっているが、、。

時代により、カナン人、フェニキア人、ヘブライ人、エジプト人、アラム人、アッシリア人、バビロニア人、ヒッタイト人、ペルシア人、マケドニア人、ローマ人、ナバタイ人、ギリシャ人、アラブ人、十字軍、モンゴル人、テュルク人によって、、、支配された。

■いさらいの井戸

突然ですが、、話は、、全くシリアとは、関係なさそうな、、京都は広隆寺の近くにある、、「いさらいの井戸」に転じます、、、。
もともとは広隆寺の境内にあったという、、「いさら井(伊佐良井)」と言う名の地味な、、そして神聖な井戸は、、謎に包まれている、、、、。
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「いさら井」とは、、音を観れば「Ezalae]と近いことに気がつく、、、そうです、、、「イスラエル」です、、、景経では「一腸楽業=イスラエル」と記されていますが、、ここでは「伊佐良井」と音で追っている。

この井戸が広隆寺にあった、、、それでは、、広隆寺とは、、どんな寺か、、

広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦(うずまさ)にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)[1]、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。帰化人系の氏族である秦(はた)氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。

広隆寺が秦氏(はたし)の、、氏寺、、、であることは、、よく知られている。

※推古天皇11年(603)11月、、聖徳太子が、「尊き仏像をだれか礼拝するものはないか」と問うた時、山城秦氏の首長であった秦河勝が進み出て、その恭拝を申し出、「蜂岡寺」を造立した。蜂岡寺は、「葛野秦寺」とも呼ばれている、、太秦(うずまさ)広隆寺の前提である。

※秦氏は、、京都伏見稲荷大社、、嵐山の松尾大社などの造営にも、、関係しており、、神祇と仏教が習合している、、、。
一方、、駿河の秦氏集団が住む、、、不盡河(ふじかわ)=富士川で、、道教系の常世神信仰が流行したことに対して、、、民を惑わすもの、、として秦河勝が、、弾圧している。
秦氏の信仰は、、仏教、神祇は習合するが、、道教は許さないのか、、

拙者関連Blog「秦氏の遺産  -稲荷はINRI-」
http://tokatu1.at.webry.info/201203/article_2.html

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さて、、、テーマである、、シリアとの関連性は、、まだ、、見えてこない、、、。

------つづく-------












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