六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー④

■日頂と日向は、、師の葬列に参加していない?

あの方は、、
弘安5年(1282年)10月13日、辰の刻(午前8時頃)、すべての化導と相承を終、弟子・檀越が唱題するなか、御歳61歳をもって入滅された。

この時、地震が起こり、10月に桜が咲いた、、という伝説がある。

前9月25日には、弟子達に「立正安国論」の講義をされたことから、立正安国論に始まり立正安国論に終わるとも言われる。

 明けて14日、戌の刻(午後8時頃)に入棺され、子の刻(午前零時頃)に御葬送、荼毘に付され、御灰骨は宝瓶に納められ、御葬儀は滞りなく厳修された。

 その後、初七日忌の御法要を奉修され、10月月21日早朝、御灰骨は池上を発ち、10月25日に身延に納骨された。

これら葬送の儀は、、翌年に記されたと言われる日興上人「宗祖御遷化記録」西山本門寺所蔵 によれば
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列の先頭には、冨木五郎入道が香を持ち、太田左衛門入道が鐘をたたき、南条七郎次郎が花をまき、大学亮が法華経を持ち、大学三郎が仏像を持って参列しています。次にはきものを源内三郎が持ち、、
この立場に、、「あの方」との縁の深さを想像します、、、、、。

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※南条七郎次郎(上野殿):
父は、、北条時頼の近臣であった南条兵衛七郎・時光で「兵衛」といい、自邸は富士の上野にあった。文応・弘長の頃、鎌倉番役に勤めていたときに「あの方」の教化を受け、念仏を捨て法華に帰信した。
しかし、文永二年三月八日に病死となり、後に成長した長男七郎次郎が後を継いだ。現在の日蓮正宗大石寺を寄進した。開基日興上人の後に南条時光の姉を母に持つ親族の日目上人が後を継いでいる。


※大学三郎(1201~1286)比企能本(ひきよしもと)
父親は将軍源頼家と共に北条氏打倒を謀り、それが失敗して「比企氏の乱」建仁三(1203)年で、北条時政に殺された比企三郎能員(ひきよしかず)です。

能本は伯父の伯耆法印圓顕に引取られ、京都の東寺に身を隠し学問に励み成長した。後に儒者として有名になり、順徳天皇の侍者相談役に加わり「承久の乱」のときは順徳天皇に従ってともに佐渡へ渡っています。

比企能本(よしもと)の姉、讃岐局は将軍頼家に嫁しています。さらに、その子供の竹の御所が将軍頼経の夫人となったことにより、嘉禄年中(1225~1226年)に赦免されて鎌倉に帰り、儒官として幕府に任用されます。

 「あの方」は、建長三(1251)年のころ、比叡山遊学の頃に比企能本から儒学などを学んだといいます。この縁により『立正安国論』を上呈するときに、比企能本から文章的な意見を求めたといいます。

後には「あの方」の説法に帰依し、60歳で入信します。草庵を構え、法華堂と号して寄進します。「あの方」が佐渡流罪から鎌倉へ帰って来たときに、この法華堂に入られ能本の父能員の法号「長興」と母の法号「妙本」をもって、長興山妙本寺と命名した。

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時の政権に近い二人、、僧の日昭と壇越の大学三郎が、、権力の中枢平頼綱(平左衛門)の圧政のなかで、、佐渡流罪の赦免に奔走したことは知られています。

※--御家人と御内人(役人)との対立と「あの方」--については別に記す、、

Wiki--御内人の頼綱の勢力が、有力御家人であった安達泰盛らの勢力と拮抗していた、、。蒙古襲来によって幕府の諸問題が噴出する中で、戦時体制に乗じて得宗権力が拡大していき、権力を行使する御内人の勢力は増し、その筆頭である頼綱(平左衛門)と、得宗外戚で伝統的な外様御家人を代表する泰盛との対立が深まっていった---Wiki


拙者関連Blog
じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑧ 
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次には、、御棺(ひつぎ)が運ばれます。担ぐのは弟子四名と思われます。

葬列の前陣は日朗、、後陣は日昭となっている。一般的には後陣が上位と言われる。
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御教は法華経、佛は釈尊立像と言われる。
前列の机、教などの文具、、後列には御太刀、御腹巻の武具は「文武両道」が正法護持の備えの意義と見られている。

葬送の映像が浮かんでくるではないか、、、

「あの方」の親族の貫名家の兄弟は、、どのように参列したのだろうか、、

※別途涅槃図(江戸時代か) 後日添付

十四日夜間(午後8時ころ)日昭、日朗により入棺、御前零時頃葬送、火葬された、、、。

また、「宗祖御遷化記録」によれば弟子の毎月の墓番担当も記されている。

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今では、、入滅の日は、、御会式と呼ばれ、、お祭りになっている。

池上では、今年、宗祖第七百三十六遠忌十月十一日から十三日まで「御会式」として毎年数十万人が集まるという、、大掛かりな行事が行われる。
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江戸時代の御会式 Wiki

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万灯(まんどう)
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 日蓮聖人が亡くなられた時、庭先の桜(お会式桜)が時ならぬ華を咲かせたという故事から、万灯は紙で作った造花で灯明輝く宝塔を飾っています。
 その万灯を先導するのは、江戸の火消し衆が参拝する折りに始めた纏(まとい)。纏が賑やかに舞い、団扇太鼓と鉦と笛の軽快な音色と共に万灯は進んでゆきます。  池上本門寺では、例年、全国から集まった百数十基の万灯が、深夜まで池上の地を練り歩き、報恩を捧げています。

池上本門寺ホームページより

-----池上本門寺-------
同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされている[2]。その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した。

池上氏館の居館部分は本門寺西側の谷の一帯にあったと考えられており、現在は、1276年(建治2年)建立された池上氏館内の持仏堂(法華堂)を起源とする本門寺の子院・大坊本行寺の境内となっている。本門寺は、鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり栄えた。

江戸時代、不受不施派を奉ずる本門寺は、「身池対論」を経て久遠寺の傘下に収まった。第二次世界大戦の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失したが、戦後順次復興した。

※拙者Blog「身池対論」
http://tokatu1.at.webry.info/201512/article_2.html

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その後の「形見分け」では、、

伊予公(日頂) 御腹巻 銭三貫文 
また
佐渡公(日向) 御馬一匹 小袖一
、、となっている。

ところで、、弘安6年正月の日興筆と言われる「宗祖御遷化記録」を見ると、、、、
記録紙の継目に記す花押(現在の割印)だが、本弟子(六老僧)のうち、佐渡公(日向)と伊予公(日頂)の花押が記されて無いという、、、。

このことから、、、日頂と日向とが、、入滅と葬儀の期間中には不在であった、、と見られている。

そう言われれば、、、日興上人「宗祖御遷化記録」には葬列に二人の名前が出てこない、、ではないか、、。
本弟子の「六老僧」に名を連ねる後継の二人であるが、、なんと、、この期間に不在とは、、、謎、、となっているらしい、、。

何らかの、ミッションを帯びて密命の旅にでていた可能性があるが、、どうやら、、、記録が無いのだ、、、。

つづく









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